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柳原 愛子(やなぎわら なるこ、1859年6月26日(安政6年5月26日) - 1943年(昭和18年)10月16日)は、明治天皇の典侍。大正天皇の生母。 位階の正二位をもって二位の局(にいのつぼね)と呼ばれた。死後従一位を追叙されたことから一位の局(いちいのつぼね)と呼ばれることもある。女房名は梅ノ井(うめのい)、早蕨典侍(さわらび てんじ)など。 幕末の議奏・柳原光愛(やなぎわら みつなる)の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪にあたる。 == 来歴 == 1870年(明治3年)、皇太后宮小上臈として出仕し、掌侍(勾当内侍)を経て1873年(明治6年)に権典侍となった。 明治天皇の宮人となって、第二皇女・梅宮薫子内親王、第二皇子・建宮敬仁親王、第三皇子・明宮嘉仁親王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。1902年(明治35年)に典侍に任官。 明治44年の昭憲皇后の還暦を祝う式典では、典侍として高倉寿子とともに女官の筆頭を務めた。高倉寿子は皇后の入内に際してその補導役として実家から供をしてきた腹心と言える存在であり、明治天皇の御側女官たちを管理する役割も担っていた〔小田部雄次著『昭憲皇太后・貞明皇后』〕。 九条節子が皇太子妃に決定し、6人の典侍がその教育係となるが、柳原愛子もその一人だった。嘉仁親王の即位後、1913年(大正2年)7月に正三位皇后宮御用掛・御内儀監督となり、1915年(大正4年)12月1日、従二位に叙された。 1925年(大正14年)5月10日、勲一等瑞宝章を授けられた。1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、孫である昭和天皇が践祚した。1940年(昭和15年)2月11日、勲一等宝冠章を受章。1943年(昭和18年)10月16日、四谷信濃町の自宅にて薨去。同日、従一位に追叙。享年84。墓所は東京都目黒区中目黒五丁目の祐天寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳原愛子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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