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幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。 == 語義 == 「幕」は・「幔幕」・「陣幕」・「帳幕」・「天幕」を意味し、「府」は王室等の財宝や文書を収める場所、転じて役所を意味する。中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。漢代には大将軍などの高位の将軍が幕府を開き、幕僚を置いて政治をとることが多くなった。〔中国史学者の渡邉義浩によれば、後漢から三国時代の大将軍は軍事・内政の全権を掌握する政権の最高権力者の官位とされることが多く、蜀漢の諸葛亮の後継者である蒋琬らが就任しているという。(渡邊『「三国志」武将34選』PHP研究所)〕日本では近衛大将の唐名となり、「幕下(ばっか、ばくか)」あるいは「柳営」〔前漢の将軍、周亜夫が匈奴征伐のために「細柳」という地に布陣し、軍規を厳しく威令を整え、文帝の行列すらも陣中の作法を守らせるために下馬させ、かえって文帝の賞賛を受けたという『漢書』周勃伝の故事より〕ともいった。 その後、日本では平安時代の蝦夷との戦いの時の最高司令部を陸奥多賀城などに設け、ここを鎮守府将軍の鎮守府として「遠の朝廷」(とおのみかど)と敬称し、非常時には陸奥・出羽の行政及び軍事の専権を持つものとされた。これが幕府の祖型とされる。奥州平泉に鎮守府を構えた奥州藤原氏は鎮守府将軍として権勢を振るい、本来は非常時のみであった将軍の権力を常に行使した。〔高橋富雄『平泉の世紀―古代と中世の間』 講談社学術文庫、2012による。高橋によれば、鎮守府将軍は前述の周亜夫の故事から「君命も受けざる所あり」とされ、非常時には天皇大権を行使できる「節刀」を授かっていた。〕 建久元年(1190年)に前右近衛大将源頼朝が鎌倉に武家政権を創始したことから、その政庁(居館)を幕府と呼ぶようにもなった。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした後の建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ〔源頼朝は朝廷に以前から征夷大将軍宣下を奏請していたが、朝廷は奥州藤原氏が当時は同格と見なされていた鎮守府将軍職にあったことなどを理由に将軍宣下を拒んでいた。なお、『吾妻鏡』にも、奥州合戦時に捕虜にされた奥州藤原氏の家臣の武士が「わが奥州藤原家は将軍宣下を朝廷から受けている正式な鎮守府将軍家であり、鎮守府も開けず左兵衛佐程度の木っ端役人にすぎない源頼朝風情に頭を下げる必要はない」と言い出したことが出ているという。頼朝の右近衛大将すら奥州合戦での勝利の後に与えられた官位であった。高橋2012〕、以後代々の首長もまた頼朝を継承する地位の表象として征夷大将軍職〔これに準ずるものとして右近衛大将職、鎮守府将軍職なども存在する。〕に就いたことから、幕府の主を将軍とする通念を生じた。征夷大将軍を中国風に覇者とみなし、覇者の政庁の所在地として「覇府」とも呼ばれる。 「幕府」という言葉が将軍個人や空間的な将軍の居館・政庁から離れ、今日のように観念的な武家政権を指すものとして用いられるようになるのは、藩と同じく江戸時代中期以降のことで、朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられた。「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたものである。それ以前には「関東」「武家」「公方」などと呼ばれており、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したこともない。〔それに準ずるものとして朝廷からの将軍宣下があり、初代将軍への将軍宣下をもって幕府開府とみなすことが多い。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「幕府」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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