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柳 宗元(りゅう そうげん、''Liú Zōngyuán'';大暦8年(773年) - 元和14年(819年))は、中国中唐の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。本籍地の河東(山西省)から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また、その最後の任地にちなみ「柳柳州」と呼ばれることもある。王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。散文の分野では、韓愈とともに宋代に連なる古文復興運動を実践し、唐宋八大家の1人に数えられる。 == 略歴 == 同時代の著名な文人、白居易・劉禹錫に1年遅れて長安で出生。徳宗の貞元9年(793年)に進士に挙げられ、貞元14年には難関の官吏登用試験(科挙)の博学宏詞科に合格、集賢殿正字(政府の書籍編纂部員)を拝命した。新進気鋭の官僚として藍田(陝西省の県名)の警察官僚から監察御史(行政監督官)を歴任した。 徳宗治世の8世紀末の唐は、宦官勢力を中心とする保守派に対決姿勢を強める若手官僚グループの台頭が急であった。王叔文を頭目に戴くこの改革派へ、政界の刷新を標榜する柳宗元は盟友劉禹錫とともに参加するが、既得権益の剥奪を恐れる保守派の猛反発に遭い、加えて徳宗の歿後(805年)担ぎ上げた頼みの順宗も病弱で、その退位と同時に改革政策はわずか7ヶ月であえなく頓挫。礼部侍郎に就任し、これからという時に柳宗元の政治生命は尽きた。 政争に敗れた改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、都長安(西安市)を遠く離れた邵州(湖南省)へ、刺史(州の長官職)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州(湖南省)へ、司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元33歳。 以後、永州に居を構えること10年、元和10年(815年)にはいったん長安に召還されるものの、再び柳州(広西壮族自治区)刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま、元和14年、47歳で歿した。政治家としてはたしかに不遇であったが、そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないかとは、韓愈の「柳子厚墓誌銘」などにあるように、しばしば指摘されるところである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳宗元」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Liu Zongyuan 」があります。 スポンサード リンク
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