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柳 宗理(やなぎ そうり〔『朝日年鑑 第2巻』 : “柳宗理” 1973年 朝日新聞社〕、1915年6月29日〔『6月29日はプロダクトデザイナーの柳宗理の誕生日です 』 2013年6月29日 FASHION HEADLINE〕 - 2011年12月25日〔『柳宗理さん死去、工業デザインの草分け 』 2011年12月26日 AFPBB News〕)は、20世紀に活動した日本のインダストリアルデザイナー〔『柳宗理(やなぎむねみち)とは 』 小学館『デジタル大辞泉』・日立ソリューションズ・ビジネス『百科事典マイペディア』・講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 - コトバンク〕。戦後日本のインダストリアルデザインの確立と発展における最大の功労者と言われる〔『日本デザイン界のパイオニア、柳宗理に注目 』 2009年6月1日 Fashionsnap.com〕。代表作は「バタフライ・スツール」〔『【商品】柳宗理の代表作にちなみオークション 』 2015年1月27日 繊研プラス〕(天童木工製作)〔『柳 宗理氏が死去 享年96歳 』 2011年12月26日 Fashionsnap.com〕。ユニークな形態と意外な実用性を兼ね備えた作品が多く知られた。実父は柳宗悦、祖父は柳楢悦。工業デザインの他に玩具のデザイン、オブジェなども手がけた。金沢美術工芸大学客員教授。本名は柳 宗理(やなぎ むねみち)。 ==来歴== *1915年東京都原宿に父・柳宗悦と母・兼子の長男として生まれた。次男に美術史家・柳宗玄、三男に園芸研究家・柳宗民がいる。 *1934年東京美術学校洋画科入学。バウハウスにいた水谷武彦の講義でル・コルビュジェの存在を知り、デザインに関心を持つようになった。 *1940年東京美術学校洋画科卒。商工省の水谷良一に誘われ、日本輸出工芸連合会の嘱託となり、当時輸出工芸指導官として来日していたシャルロット・ペリアンの日本視察に同行。日本各地の伝統工芸に触れる。 *1942年、坂倉準三建築研究所の研究員となる。 *1943年に太平洋戦争の下、坂倉が設計を進めていた日本文化会館の手伝いのために、研究員の身分のまま陸軍の報道班員として南方戦線の激戦の地フィリピンへ渡る。1946年に復員し、敗戦後は工業デザインの研究に着手する。松村硬質陶器シリーズのデザインをするも終戦直後の物資不足の中、焼成の燃料持参でなければ窯業所は生産を行わない為、海中に沈没した軍の徴用船から石炭を運びだし焼成にこぎつけた。1950年、柳宗理デザイン研究所を開設。 *1952年に第1回新日本工業デザインコンクールに出品し第1席「レコードプレイヤー」(日本コロムビア製作)、2席を併せて入選。この賞金で財団法人柳工業デザイン研究会を設立する。この頃、日本工業デザイン協会創設に参加した。 *1955年、金沢美術工芸大学産業美術学科教授に就任。 *1957年第11回ミラノ・トリエンナーレに招待出品し、「バタフライ・スツール」及び「白磁土瓶」が金賞受賞。その後デザイナーとして国際的に活動。 *1977年日本民芸協会会長に就任、翌年には日本民芸館館長に。 *1980年イタリア在住のデザイナーでさえも推挙がなければ困難とされる「ミラノ市近代美術館」でデザイナー初の個展を開いた。 *1981年に紫綬褒章。 *2002年秋に文化功労者。 *2011年2月に「柳宗理エッセイ」(平凡社ライブラリー)を刊行。 *2011年12月25日、肺炎のため東京都内の病院で死去。96歳であった。〔『工業デザイナー 柳宗理氏死去 』 2011年12月26日 NHK科学文化部〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳宗理」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sori Yanagi 」があります。 スポンサード リンク
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