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柳家 小せん(やなぎや こせん)は、落語家の名跡。 初代とされている小せん以前に、文久元年(1861年)2月生まれで本名が田中万吉の小せんの名前が1889年、1892年の「名簿欄」に見え、いわゆる『文之助系図』でも2代目禽語楼小さんの門人にこの小せんがいた事が記載されている。以前は本所松倉町で畳屋を営んでいたという。芸風、改名歴などは不明。現在この小せんは代々に数えられていない。 2010年9月に5代目鈴々舎馬風門下の 鈴々舎わか馬 が5代目柳家小せんを襲名。 == 初代 == 初代柳家 小せん(1883年4月3日 - 1919年5月26日)は、落語家。本名は鈴木万次郎。 浅草福井町の提灯屋を営んでいた2代目三遊亭萬橘(元:4代目七昇亭花山文)の実子。1897年に4代目麗々亭柳橋の弟子になり柳松となったが、師匠柳橋の死去にともない3代目柳家小さん門下に移って小芝となり、その後小せんに改名した。丁寧な演出と敬愛してやまなかった兄弟子3代目蝶花楼馬楽譲りの警句を交じえた巧みな口調が早くから注目されており、落語研究会の有力な若手として期待を集めていた。 1910年4月真打昇進したが、それまでの過度の廓通いが祟って脳脊髄梅毒症を患い腰が抜けたため、人力車で寄席に通い、妻に背負われて楽屋入りし板付きで高座を務めるようになった。1911年頃には白内障を患って失明した。 落語の実力は他の追随を許さないほど優れていた。師匠小さんのネタはほとんど演じておらず、『居残り佐平次』『お見立て』『お茶汲み』『五人廻し』『とんちき』『白銅』などの廓噺を得意とした。速記も残されている。 晩年は師匠小さんの薦めにより、自宅の浅草三好町を稽古場として月謝をとって落語を教えており、この稽古場は「小せん学校」や「三好町通い」と称された。直弟子はいなかったが5代目古今亭志ん生、林家彦六、6代目三遊亭圓生、5代目麗々亭柳橋、3代目三遊亭金馬など、後に名人となった多くの落語家が小せんから直接教えを受けている。 最後の高座は1919年5月の下谷金杉の壽亭で得意ネタだった『居残り佐平次』で、その数日後に三好の自宅で心臓麻痺のため37歳で死去。 戒名は「古詮院法有信士」といい生前の1912年に菩提寺の住職から付けて貰った。 速記本には『柳家小せん落語全集』『廓ばなし小せん十八番』等がある。また吉井勇は戯曲として『或る日の小せん』を出版。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳家小せん」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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