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柳河藩(柳川藩、やながわはん)は、筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現:福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となった。 == 歴史 == 柳河(柳川)地域を中心とする下筑後(筑後南西)地方は、鎌倉時代から戦国時代末期まで蒲池氏の領地であり、次いで蒲池氏を滅ぼした龍造寺氏が一時期支配する。 豊臣時代は立花宗茂が柳川城主として13万2千石を領していたが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易除封となった。 同年、三河国岡崎城主田中吉政が、石田三成を捕らえた功により筑後一国32万5千石を与えられ柳川城に入った。吉政は筑後川などの河川改修、新田開発の奨励、有明海沿岸に「慶長本土居」と呼ばれる32kmにも及ぶ堤防を築くなど、領内の整備を精力的に行った。元和6年(1620年)2代忠政が病没すると、無嗣断絶により改易となった。 同年、旧田中領は分割され、西軍荷担の罪を赦され陸奥国棚倉藩3万石を領していた立花宗茂が8万石弱の加増を受け、10万9千石にて柳川城に返り咲いた。また、久留米城に有馬豊氏が21万石にて入封し久留米藩が成立した。同じく、宗茂の甥に当たる種次が元和7年(1621年)三池郡に1万石を得て、三池藩が成立している。 渡辺村男の「旧柳川藩志」では2代忠茂は万治元年(1658年)家臣の禄を地方知行制から蔵米知行制に変更したとされるが、知行制の改変について、具体的な推移は解明されていない〔「柳川歴史資料集成第3集 柳河藩立花家分限帳」。同書掲載の渡辺家史料の一つである万治3年(1660年)とされる分限帳では地方知行制を前提としたものになっている。ちなみに同史料は家臣の給地内容が判明する唯一の史料でもある〕。これにより藩士は、分限帳上において地方知行制を前提とした石高で表記される給人(知行取)と蔵米支給を前提として禄高として与えられる扶持米により「○○人扶持」と表記されたり、切米の容量で石高表記される無足に大別され、家中の役負担や格付に差がでるようになる。 4代鑑任は元禄10年(1697年)城の西方に藩主別邸「集景亭」を造営した。鑑任死後は会所となったが、元文3年(1738年)に柳川城二の丸にあった奥(江戸幕府大奥に相当)が同所に移転され、以降は御花畠と呼称されるようになる。旧藩主立花家が経営する料亭旅館「御花」として現在に残っている。 8代鑑寿の、文化3年(1806年)下手渡藩に左遷転封となった旧三池藩領1万4千石を西国筋郡代が支配していたが文化13年(1816年)柳河藩預かり支配に変更された。その後、嘉永4年(1851年)預かり地のうち5千石が下手渡藩領に復し、明治元年(1868年)三池藩が再び立藩したため柳河藩預かりは解消された。 最後の藩主である12代鑑寛は安政年間(1854年 - 1859年)、家老の立花壱岐を登用し安政の改革を断行した。明治2年(1869年)戊辰戦争での軍功により明治政府より賞典禄5千石を与えられた。 明治4年(1871年)廃藩置県により柳川県となった。のち、三潴県を経て福岡県に編入された。 1884年(明治17年)、立花家は伯爵となり華族に列した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳河藩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yanagawa Domain 」があります。 スポンサード リンク
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