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柳慶遠(りゅう けいえん、458年 - 514年)は、南朝宋から梁にかけての軍人・政治家。字は文和。本貫は河東郡解県。柳元景の甥にあたる。 == 経歴 == 義陽郡内史の柳叔珍の子として生まれた。郢州主簿を初任とし、南斉初年に尚書都官郎・大司馬中兵参軍・建武将軍・魏興郡太守となった。魏興郡が大水の被害に遭ったため、官吏たちは民衆を祀城に避難させるよう願い出た。慶遠は「天が雨水を降らすのであって、どうして城の知るところであろうか。江河の長さは3日分に過ぎないと私は聞いている。これまた何の心配がいるだろうか」と言って、土堤の修築を命じるのみであった。はたしてまもなく水は引いていった。 入朝して長水校尉となり、平北録事参軍・襄陽県令として出向した。蕭衍が雍州刺史となり、京兆の杜惲に人材を問うと、杜惲は慶遠を推挙した。蕭衍は慶遠を召し出して別駕とし、記録の仕事をつとめさせた。蕭衍が起兵すると、慶遠は蕭衍の帷幄にあって謀主をつとめた。 中興元年(501年)、和帝の下で黄門郎となり、冠軍将軍・征東長史に任じられた。蕭衍の軍に従って東下し、部隊の先頭に立った。蕭衍が陣営を視察すると、慶遠の兵舎が整然としているのに感嘆した。建康城が平定されると、侍中・前軍将軍となり、淮陵斉昌二郡太守を兼ねた。建康城内で夜間に失火があり、禁中が騒然となると、蕭衍は宮中の諸門を全て閉めさせ、「柳侍中はどこにいるか」と所在を問わせた。慶遠がやってくると、ずっと付き従わせた。その信任ぶりはこのようなものであった。 霸府が建てられると、慶遠は太尉従事中郎となった。天監元年(502年)、蕭衍が即位すると、慶遠は散騎常侍・右衛将軍の位を受け、征虜将軍を加えられ、重安侯に封じられた。2年(503年)、中領軍に転じ、雲杜侯に改封された。4年(505年)、使持節・都督雍梁南北秦四州諸軍事・征虜将軍・寧蛮校尉・雍州刺史として出向した。蕭衍は新亭まで見送り、「卿が錦を着て故郷に帰れば、朕は西方に心配がなくなるだろう」と言った。 7年(508年)、召還されて護軍将軍となり、太子庶子を兼ねた。任につく前に、通直散騎常侍・右衛将軍となり、右驍騎将軍を兼ねた。建康に到着すると、北魏の宿預城が降伏を願い出てきたため、その対応のため、仮節を受けて淮陰の防備にあたり、北魏軍を撃退した。8年(509年)、建康に帰り、散騎常侍・太子詹事・雍州大中正に任じられた。10年(511年)、侍中・領軍将軍の位を受けた。12年(513年)、安北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。13年(514年)春、死去した。享年は57。侍中・中軍将軍・開府儀同三司の位を追贈された。諡は忠恵といった。 子の柳津が後を嗣いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳慶遠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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