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柳 文朝(やなぎ ぶんちょう、生没年不詳) は、江戸時代中期の浮世絵師。 ==来歴== 一筆斎文調の門人。通油町に住んでいた。南柳斎、南龍斎と号す。本業は紺屋(染物屋)の上絵書きであった。初めは狩野派の絵を学んでいる。また豊後節常磐津朝太夫の弟子で浄瑠璃が上手であった。宝暦(1751年-1764年)から寛政(1789年-1801年)頃に活躍し、『鳴髪鐘入桜』などの常磐津正本の表紙絵を手がけ、役者似顔絵においては2世大谷広次を得意としたといわれる。また、明和(1764年-1772年)末年頃、天王祭礼の行灯に役者似顔絵を描いたとされる。肉筆画「吉原鳥瞰図」は視点を日本堤の上空に置いた設定で右手前に見返り柳から衣紋坂を下って、桜咲く花の仲町を中心に吉原遊廓の家並みを俯瞰している。左には待乳山や浅草寺の伽藍、さらにその向こうに両国橋が望まれ、右上方、墨や金泥で現実的に表された空の一隅には雪を被って清々しい富士山が突兀とそびえている。江戸っ子の自慢のはずである将軍様の居城は描かず、吉原を主に僅かに隅田川沿いの名所風景を綴らせた江戸鳥瞰図は、いかにも浮世絵師らしいといえる。文朝は、早くから写実的人物描写への関心が芽生えており、西洋画の遠近法を取入れた本図のような江戸実景図が存在するのも、さこそと肯かれる。司馬江漢らの洋風画家の影響を受けた天明、寛政期の作品であると考えられる。柳文朝画の落款に、南柳斎の朱文方印が捺されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳文朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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