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薮田重守(やぶたしげもり、寛文4年(1664年) - 延享4年(1747年))は、江戸時代の武家家臣。甲斐国甲府藩主・大和国大和郡山藩主である柳沢氏家臣で、柳沢家の家老〔西川(2011)、p.143〕。別名は柳沢市正。子に里守〔西川(2011)、p.143〕。 『甲斐国志』に拠れば、柳沢保格(権太夫)、鈴木主水(主馬、大内蔵)、近藤図書、川口石見、柳沢矢柄とともに家老を務めたという。 == 略歴 == 美濃国加納藩主・戸田松平家の家臣山田氏の出自〔西川(2011)、p.143〕。延宝2年(1674年)に江戸へ出て、延宝8年(1680年)に下野国烏山藩主・那須資弥の家臣である薮田重之の養子となる〔西川(2011)、p.143〕。那須家は貞享4年(1687年)に改易となり、重守は浪人となる〔西川(2011)、p.143〕。 重守が仕えた柳沢吉保は元禄元年(1688年)11月に将軍・徳川綱吉の側用人に取り立てられ、同年には一万二千石を拝領して大名に列している。重守は元禄元年に吉保に出仕し、薮田五郎右衛門を称している〔西川(2011)、p.143〕。翌元禄2年には用人役となり50石を拝領し、その後加増を受け元禄7年(1694年)には400石を知行している〔西川(2011)、p.143〕。 元禄10年(1697年)には家老となり、600石を知行している〔西川(2011)、p.143〕。将軍綱吉はたびたび吉保邸へ御成を行なっているが、この際に重守も下賜品を拝領している〔西川(2011)、p.143〕。また、吉保と外様大名との交渉役も務め、「豊田家史料」には熊本藩主・細川綱利や高松藩主・松平頼常、前橋藩主・酒井忠挙、篠山藩主・松平信庸から重守に送られた書状が伝存している〔西川(2011)、p.143、pp.148 - 149〕。元禄15年(1702年)4月6日には吉保邸が焼失し、この際に吉保は重守邸に一時避難している〔西川(2011)、p.143〕。 宝永元年(1704年)12月21日に吉保は甲斐国を拝領しているが自身は国元へ赴任せず、重守は甲斐統治に際して現地に赴任し、甲府城の山手門外(甲府市北口)に屋敷地を賜り、1600石を拝領している〔西川(2011)、p.143〕。 吉保は黄檗宗に帰依し、京都萬福寺の黄檗僧・悦峯道章(えっぽうどうしょう)を招聘している。吉保は甲府岩窪町(山梨県甲府市岩窪町、現在は移転して奈良県大和郡山市永慶寺町)に菩提寺として黄檗宗寺院の永慶寺を創建し、重守は宝永4年(1707年)に吉保名代としての参拝などを行なっている〔西川(2011)、p.143〕。宝永6年(1709年)に吉保が隠居すると江戸へ戻る〔西川(2011)、p.143〕。 正徳2年3月21日には柳沢姓を与えられ柳沢市正を称する〔西川(2011)、p.143〕。翌正徳3年には吉保の娘・増子が重守の子・里守の室となり、重守は柳沢家一門となった〔西川(2011)、p.143〕。正徳4年11月2日には吉保が死去し、重守は甲府・永慶寺に運ばれた遺骸に随行し、葬儀を行なっている〔西川(2011)、p.143〕。 享保9年には柳沢氏が甲斐から大和郡山へ転封され、翌享保10年(1725年)に重守は出家して「白鴎」と号する〔西川(2011)、p.143〕。柳沢家では荻生徂徠により吉保の公用日記である『楽只堂年録』が編纂されているが、重守は吉保死後の元文5年(1740年)に吉保一代記である『永慶寺殿源公御実録』(豊田家史料)を編纂している〔西川(2011)、p.143〕。 2011年には山梨県立博物館で開催された『柳沢吉保と甲府城』展に際した豊田家史料の調査において、吉保の重守宛文書が70点以上発見された〔髙橋(2011)、p.44〕。吉保の重守宛て書状は関連資料も含めて髙橋(2012)で翻刻されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薮田重守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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