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柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)(柳生但馬守宗矩 やぎゅう たじまのかみ むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。 == 生涯 == === 誕生から徳川家仕官 === 元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる〔史料 柳生新陰流〈上巻〉収録「玉栄拾遺(三)」 p.66に「柳生邑於誕生シ玉フ」とあり〕。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。 若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている〔ただし、柳生家が失領した時期については諸説あり、小田原征伐より後の文禄3年(1594年)に行われた太閤検地の際に、隠し田が露見した事によるものとする説もある(定本大和柳生一族p.150)〕。文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に〔史料 柳生新陰流〈上巻〉収録「玉栄拾遺(二)」。p.59に「文禄三甲午年、聚楽紫竹村ニテ宗厳公ノ剣術始テ神君上覧、宗厳是ヲ執可シト上意有。即公無刀ニテ執給フ」とあり〕、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる。〔寛政重修諸家譜p.296に「文禄三年東照宮に拝謁し、めされて御麾下に列す」とあり、史料 柳生新陰流〈上巻〉収録「玉栄拾遺(二)」p.59に「且俸禄二百石ヲ賜フ」とある〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳生宗矩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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