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柳田 豊(やなぎだ ゆたか、1951年8月31日 - )は、1970年代から1980年代にかけて活躍した元プロ野球選手。ポジションは投手。右投右打。宮崎県出身。従兄弟の子にプロ野球選手の柳田悠岐がいる〔「ソフトバンク・柳田悠岐選手のルーツは延岡」夕刊デイリー2014年11月8日付3面より 〕。 == 来歴・人物 == 延岡商業高校では1968年、2年生の時にチームが夏の甲子園に初出場している〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕が、控え投手であった柳田は出場メンバーに入れなかった。翌1969年夏の県予選ではエースとして決勝に進出。宮崎商の西井哲夫と投げ合うが完封負け、南九州大会には進めなかった。 1969年のドラフト8位で西鉄ライオンズに入団。当時、最強を誇った阪急ブレーブス相手に好投していたのを西本幸雄監督に見出され、1974年のシーズンオフ、芝池博明と共に近鉄バファローズに移籍する。その際の交換相手は当時、パ・リーグを代表する主砲・土井正博であった(その時点で、土井は通算305本塁打。一方、柳田は通算16勝、芝池は5勝)。 移籍後は、抜群のスタミナを生かし速球と緩いカーブを使い分けて先発・中継ぎ・抑えとフル回転し、1978年から、4年連続を含む通算5度の2ケタ勝利をマーク。鈴木啓示、井本隆、村田辰美らの投手陣やチャーリー・マニエル、羽田耕一、栗橋茂、佐々木恭介らの強力打撃陣と共に1979年・1980年のパ・リーグ連覇に貢献。見事、首脳陣の期待に応えた。身体を一旦後に回転して投げるという、同じバファローズの後輩に当たる野茂英雄風の投法だったが、こちらは細身でサイドスローだったので印象が違った。また、投球後にピョコンと飛び跳ねる動作が独特であった。ブーマー・ウェルズを得意としており、本来右打ちのブーマーが攻略のために左打ちで打席に立ったほどであった。一方で、被本塁打が多く、特にオールスターゲームにおいては山本浩二(1979年第3戦)と掛布雅之(1981年第2戦)にそれぞれサヨナラホームランを打たれ、1978年第1戦ではエイドリアン・ギャレットにもその試合3本目のホームランを打たれている。また与死球も多く(東尾修とほぼ同率)、1983年には本塁打数でトップを走る田淵幸一の左手を直撃、尺骨下端骨折により田淵の両リーグ本塁打王の夢を砕いてしまった。 岡本伊三美監督の時代より、チームの若返り方針に伴い登板が減っていった。1987年シーズン限り、36歳で引退。引退後は、大阪府藤井寺市内で飲食店を営んでいたが現在は故郷の延岡で漁師として生活している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳田豊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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