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柴五郎 : ミニ英和和英辞書
柴五郎[しば ごろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しば]
 【名詞】 1. brushwood 2. firewood 
: [ご]
  1. (num) five 

柴五郎 : ウィキペディア日本語版
柴五郎[しば ごろう]

柴 五郎(しば ごろう、万延元年5月3日1860年6月21日) - 昭和20年(1945年12月13日)は、日本陸軍軍人軍事参議官台湾軍司令官東京衛戍総督第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。
義和団の乱の防衛戦で賞賛を受け、欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、『タイムズ』の記者ジョージ・アーネスト・モリソンの報道も相俟ってリュウトナンコロネル・シバ(柴中佐の意)は欧米で広く知られる最初の日本人となった。
陸軍部内きっての中国通としても知られ、事ある毎に中国へ派遣された。義和団の乱において総指揮を取ったイギリス公使クロード・マクドナルドは、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ深く信頼するようになり、1901年の夏の賜暇休暇中に英国首相ソールズベリー侯爵と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林董を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、以後の交渉全てに立ち会い日英同盟締結の強力な推進者となった事から柴は事実上の日英同盟のきっかけをつくった影の立役者として評価されている。
東海散士の筆名を持つ農商務次官外務参政官柴四朗は兄。養嗣子の柴平四郎陸軍少将、娘は西原一策陸軍中将に嫁いだ。嫡孫の柴由一郎〔『稚松会会報第二十号』「死亡会員略傳 柴平四郎君」〕は1937年(昭和12年)時点で陸軍士官学校本科(15期)生徒〔『稚松会会員名簿』(昭和12年12月調)〕である。
== 経歴 ==

会津藩士(280石)・柴佐多蔵の五男として生まれるが、会津戦争によって祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃し一家は主家共々に陸奥国斗南青森県むつ市)に移住する。藩校日新館青森県庁給仕を経て明治6年(1873年)3月、陸軍幼年学校に入校。明治10年(1877年)5月、陸軍士官学校に進み、同12年(1879年)12月、陸軍砲兵少尉に任官され、翌年12月に士官学校を卒業する。士官生徒第3期の柴の同期には、上原勇作元帥内山小二郎秋山好古本郷房太郎の各大将がいる。
卒業後の柴は明治14年(1881年)7月、大阪鎮台山砲兵第4大隊小隊長に就任。明治16年(1883年)2月には近衛砲兵大隊小隊長に移る。明治17年(1884年)6月の参謀本部出仕を経て同年7月に陸軍中尉に進級し、同年10月には清国差遣を命ぜられ福州北京に駐在する。
明治21年(1888年)5月、近衛砲兵連隊小隊長に就き、翌年3月陸軍砲兵射的学校を卒業する。11月、陸軍大尉に進級し、近衛砲兵連隊中隊長に進む。明治23年(1890年)2月、砲兵課員として陸軍省に勤め、同年5月から陸軍士官学校教官となる。明治25年(1892年)1月からの参謀本部第二局員を経て同27年(1894年)3月、イギリス公使館附心得を命ぜられる。所謂駐在武官であるが8月に帰朝となる。同年11月、陸軍少佐に進級し、大本営参謀。翌年4月から日清戦争に出征し、5月に帰還、同年9月イギリス公使館附に復する。
明治31年(1898年)5月15日、米西戦争の視察の命令を受けワシントンD.C.の日本公使館に着任、大使・星亨の紹介により陸軍長官アルジャーと面会して24日にワシントンを離れ、25日から6月1日までテネシー州チャタヌーガの陸軍キャンプで訓練を視察、8日の予定が遅れて13日にフロリダ州タンパ港から出港した。アメリカ陸軍第五軍団(シャフター少将指揮)は22日にキューバサンチャゴ・デ・クーバの東約16マイルのダイクイリに上陸を開始し、続いて24日には同じく8海里のシボネーに第1師団が上陸し、柴はこれに同行した。7月1日に米軍はエル・カネーとサン・ホアンへ攻撃を行い苦戦ながらも両地点を確保し、柴はこのうちサン・ホアンの攻防戦を観戦した。降伏の交渉が始まり、17日には入城式が執り行われ、この方面の主な戦闘は終結した。柴はサンチャゴ市内へ入りスペイン側からも攻防戦の情報を集め調査した。柴の乗った船は20日にサンチャゴを離れ、柴は続くプエルトリコ攻撃の観戦を希望したが、既に遠征軍は出撃しており、26日にタンパへ帰港した船で検疫のために足止めを受けて上陸は30日、8月1日にワシントンへ戻った〔島田謹二『アメリカにおける秋山真之(中) 米西戦争を観る』2009年、朝日文庫〕。
12月、参謀本部出仕。翌年1月、参謀本部員を命ぜられ8月に帰国する。
明治32年(1899年)10月の陸軍中佐進級を経て明治33年(1900年)3月、清国公使館附を命ぜられる。駐在武官として着任間も無い5月、義和団の乱が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生の杉山彬やドイツ公使ケットレルが殺害される。柴は公使・西徳二郎の下で居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、その功を称えられる。当時、北京には日本の他に11カ国が公使館を持っており、内、日本を含む8カ国が多少の護衛兵を持っていたが、事前に柴が北京城及びその周辺の地理を調べ尽くし更には間者を駆使した情報網を持っていた事から各国篭城部隊の実質的司令官であった。事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。なお、柴自身は、アメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。
明治34年(1901年)3月、参謀本部附となり、同年6月から野砲兵第15連隊長に就任、明治35年(1902年)12月陸軍大佐に進級する。明治37年(1904年)4月から野戦砲兵第十五連隊長として日露戦争に出征し、同39年(1906年)2月に帰還する。それまでの功績から4月1日、功二級金鵄勲章を受章する。同年3月、イギリス大使館附の辞令が発せられ、7月ロンドンに着任する。
明治40年(1907年)11月、陸軍少将に進級し、同41年(1908年)12月に佐世保要塞司令官という当時「ヨウナイ司令官」と陰口をたたかれた閑職に就く〔*>歴代陸軍大将134名中、要塞司令官経験者は8名のみである(松下芳男『日本軍事史実話』文園社)〕。明治42年(1909年)8月就任の重砲兵第2旅団長の後、同44年(1911年)12月に参謀本部附の身分で清国に出張する。
大正元年(1912年)9月、重砲兵第1旅団長となり、翌年8月陸軍中将に進級するが、補職は下関要塞司令官であった。数々の武勲を立てた柴がこうも閑職にあるのは陸軍大学校を出なかったからとも、朝敵である会津藩の出だからとも言う。しかしその後、師団長を務めてからは大将街道に復帰する。
大正3年(1914年)5月には親補職である第12師団長に栄転し、同6年(1917年)5月25日に勲一等瑞宝章受章。大正7年(1918年)6月からの東伏見宮依仁親王のイギリス派遣にあたってはこれに随行する。大正8年(1919年)1月にイギリスより帰国するが、実は前年7月に東京衛戍総督に親補されており、帰国後の同年8月には陸軍大将に進級する。同年11月、台湾軍司令官に進み、大正10年(1921年)5月の軍事参議官を経て大正11年(1922年)11月より待命、翌年3月に予備役被仰付となり、昭和5年(1930年)4月に退役。
昭和20年(1945年)の敗戦後、身辺の整理を始め9月15日に自決を図る。老齢のため果たせなかったが、同年12月13日、その怪我がもとで病死する。墓所は会津若松市恵倫寺。同市のかつて兵営があったところに柴の生家跡をしめす石碑がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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