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柴田 侑宏(しばた ゆきひろ、1932年1月25日 - )は、日本の劇作家・舞台演出家。宝塚歌劇団専属として活躍している。兄は映画監督の松尾昭典。 == 略歴 == 大阪府大阪市出身。芝居好きの母に連れられて幼い頃から舞台に親しむ。11歳のときに父が病死〔、13歳のとき、父の墓参りに訪れた豊橋市で終戦を迎える。戦時中は手に職をつけるために、大阪府立今宮工業高校(現・大阪府立今宮工科高等学校)へ進学〔。 1950年、大阪府立高津高等学校を卒業後、演劇の道を志して関西学院大学文学部美学科に入学。大学卒業後に兄の松尾を頼り上京、26歳のときに宝塚のテレビドラマの脚本募集を知って応募したところ入選し、1958年4月、演出助手として阪急電鉄(宝塚歌劇団)に就職する〔。 助手時代を経て、1961年、『河童とあまっこ』(宝塚新芸劇場)で演出家デビュー。翌1962年、『狐大名』で劇団本拠・宝塚大劇場でも初演出を果たす。精力的にオリジナル作品を執筆・演出する一方、演出家デビュー以後も1973年までは、先輩演出家の作品で演出補として補佐をつとめ、引き続き演出作法を学んだ。助手・演出補時代には白井鐵造、高木史朗、内海重典など戦前派のベテランをはじめ、一足先に演出家デビューを果たしていた横澤秀雄、菅沼潤たちほぼ同世代の先輩の補佐にもあたり、研鑽を積んでいる。 若手演出家時代は劇団方針から日本物の芝居演出家として働き、1972年から外国を舞台とした作品も手がける(最初の外国物は同年発表のオリジナル作品『さらばマドレーヌ』)。1968年以降、毎年本公演(宝塚大劇場・東京宝塚劇場での公演)に作品を送り出し、1976年にはオリジナル新作『あかねさす紫の花』『星影の人』『バレンシアの熱い花』3作品を1年のうちに発表するなど、歌劇団の中軸演出家の一人として長く活躍。また1976年には『フィレンツェに燃える』にて昭和50年度芸術選奨新人賞を受賞。 1970年代〜80年代にかけて発表した多くの作品が繰り返し再演されるなど高く評価され、歌劇団の財産となっている。1981年には、同歌劇団理事に就任。充実した活動の一方、80年代初め頃から眼病に見舞われ、病の悪化により視力低下が進行、1993年以降は口述筆記にて脚本を執筆する〔「歌劇」2010年9月号 演出家随想「百周年後半の変遷」より〕。更に、演出活動の続行が困難となり、1997年、演出家としては事実上一線を退く。翌年の『黒い瞳』以降は柴田が脚本を執筆し、演出を後輩など他の担当者に任せる分業体制をとり、劇団専属作家としての仕事を中心とするようになる。 演出活動からほぼ身を退いた後も、2001年から2005年まで毎年新作を執筆して本公演に送り出しており、70代を迎えても活躍、劇作家としての健在ぶりを示した。2001年から同歌劇団顧問。2005年から2011年まで宝塚音楽学校のカリキュラム編成アドバイザー(演劇部門)を務めた。 2005年の『霧のミラノ』以降は、翌2006年~2013年まで毎年全国ツアー公演等で再演された過去作品の加筆・推敲に主にあたっていた。新作執筆の筆をしばらく置いていたことなどから、本公演との関わりも薄れ(2007年・10年・11年には本公演でも柴田作品を再演)、2014年は約46年ぶりに歌劇団の年間全公演を通して柴田作品が上演されない年となったが、同年久々に本公演のため新作を書き下ろし、翌2015年2月に10年ぶりとなるオリジナル新作『黒豹の如く』を上演、同作を皮切りに、2015年〜16年にかけて本公演、全国ツアー双方で柴田作品の再演が計画されている。 2014年4月、歌劇団創立100周年を記念して開設された「宝塚歌劇の殿堂」(宝塚大劇場内)に殿堂入りを果たしている(歌劇団の発展に寄与したスター、スタッフ計100人の1人として選出された)。 妻は宝塚歌劇団卒業生の珠梨英(49期生、1963年から1967年在籍、1967年結婚)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柴田侑宏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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