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柴田 保光(しばた やすみつ、1957年8月20日 - )は、長崎県島原市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 本格的に野球を始めたのは島原農業高校在学中で、当時の同校には軟式野球部しかなく、所属していた柔道部を退部する前提だったと言う。卒業に際し、当時の丹羽鉦電機野球部の監督に誘われ、初めて硬球を握ったと言うが、入社間もなく、チームが解散、監督らと共に地元・九州であけぼの通商を立ち上げ、ノンプロ時代はチーム存続のため、行商をしていた。当時のチームメートに、同じく九州出身で後に日本ハムで一緒にプレーする島田誠がいる。 西武時代は球は速かったが制球難から一軍定着は出来なかった。1982年の日本シリーズには1試合のみ登板。1983年オフ、江夏豊投手との交換トレードで木村広投手とともに日本ハムに移籍し、金山勝巳コーチのアドバイスでサイドスロー気味のスリークォーターに投球フォームを変更したところ、制球力が大幅に向上。ストレートの球速は130km/h台と遅くはなったが、内外角にスライダー、シュート、カーブと多彩な変化球でかわす技巧派ピッチングスタイルへと変身を遂げ、移籍2年目1985年にはローテーションに定着し2桁勝利を挙げ、同年の最多完封投手となった。 1987年には右肘血行障害の手術(左太ももの静脈を切り取り右脇下の動脈に移植するという大手術)を受けたが、翌年復帰。1990年4月25日の近鉄バファローズ戦で東京ドーム初となるノーヒットノーランを記録した。この試合では1四球を与えたが併殺でしのぎ、打者計27人を相手に成し遂げた準完全試合であった。 その後も主力投手として、防御率ベスト10入りを5回果たす(特に1991年は1位の西武・渡辺智男に0.13及ばなかった2位であった)などチームを支えたが、1994年のシーズン前に虚血性心疾患で倒れ、それがもとで現役を引退。現役引退後は1995年から1997年まで一軍投手コーチ、その後はJ SPORTSで野球解説者を務め、現在は会社員となっている。 1991年の雲仙普賢岳の大噴火により故郷の島原が大災害に遭った時に、しばらくの間試合前に自ら先頭に立って義捐金を募る運動を行なっていた。 全盛期には強打のライオンズキラーとして、西武黄金期の打線を抑え込むことも度々あった。打線の援護に恵まれることが少なく「悲運のエース」と呼ばれた。また、同僚の田村藤夫捕手に絶対の信頼を寄せ、お立ち台ではしばしば田村のリードを称賛していた。 年度によっての勝ち数のムラがあり、同僚で津野浩、西崎幸広といったエースがいたが、数年にわたり先発ローテーションの一角として活躍した。 イチローとは1992年と1993年に対戦し通算10打数無安打に抑えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柴田保光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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