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柴田 宗義(しばた むねよし、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。陸奥の戦国大名伊達氏の家臣。伊達輝宗・政宗に仕えた。通称は始め源四郎兵部、中に四郎又兵部、のち但馬。 == 生涯 == 柴田郡四保城主〔四保氏は小山(結城)氏の支族にして藤原姓、代々柴田郡を領し、柴田氏を称していたが、四保城(柴田町)に居城を移してから、四保氏を称していた。〕の四保定朝の子として生まれる。 天正4年(1576年)8月、伊達輝宗に従い、相馬の役に出陣、伊具表に7番備で相馬氏と戦う。 天正17年(1589年)8月、輝宗の子・政宗に従い、南会津郡南郷邑梁取城、泉城を攻略。同年10月には須賀川城攻略に出陣し先鋒を務めた。 文禄年間に政宗に従って上洛し豊臣秀吉に拝謁する。この時に秀吉の命により本姓の柴田に戻すよう命ぜられ、姓を柴田に戻し、柴田宗義と称した。 文禄2年(1593年)、政宗の命により居城を柴田郡船岡邑四保城から志田郡桑折邑に移す。 宗義の娘は政宗の側室となり、於山方と称され、のち、伊達宗信、伊達宗高、牟宇姫の3人を出産した。 慶長5年(1600年)9月の出羽最上氏救援の際には、留守政景を名代として伊達軍が最上に出陣。宗義はこの頃病を患っていた為、まだ13歳の子の宗朝を代わりに出陣させた(長谷堂城の戦い)。 慶長8年(1603年)、政宗の命により志田郡桑折から伊具郡金津に移る。慶長12年(1607年)、政宗の命により伊具郡金津から胆沢郡水沢城に移り、2,000石を領治した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柴田宗義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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