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柴田錬三郎 : ミニ英和和英辞書
柴田錬三郎[しばた れんざぶろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しば]
 【名詞】 1. brushwood 2. firewood 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [み]
  1. (num) three 

柴田錬三郎 : ウィキペディア日本語版
柴田錬三郎[しばた れんざぶろう]

柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年大正6年)3月26日 - 1978年昭和53年)6月30日)は、日本小説家ノンフィクション作家中国文学者。本名は齋藤 錬三郎(さいとう れんざぶろう)。シバレン柴錬)という通称でも名高い。
歴史小説に新風を送ったことで業績は名高い。『イエスの裔』は芥川賞直木賞の両方の候補となったが天秤にかけて直木賞を受賞し、その後選考委員となる。代表作に『眠狂四郎』『御家人斬九郎』『水滸伝』『徳川太平記』など多くがあり、戦国幕末を扱った作品が多く、剣客ブームを巻き起こした。
== 略歴 ==

=== 戦前 ===
岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれる。父は日本画家でもあった。
鶴山尋常小学校を卒業後、昭和4年(1929年)に旧制岡山県第二岡山中学校に進学。校友誌に短篇を発表する。親の薦めもあり、始めは医学部に進学することを考え、上京して慶應義塾大学医学部予科を受験して入学したが、半年後に文学部予科へ移る。慶應義塾大学予科3学年の時に、『十円紙幣』を君尾哲三のペンネームで『三田文學』に発表する。1940年に、庄内藩の齋藤家の出身である齋藤栄子(清河八郎の妹・辰の孫)と結婚、齋藤家の婿養子となり、齋藤錬三郎と名乗る。同年、慶應義塾大学文学部支那文学科卒業。卒業論文は『魯迅論』。
はじめ、内国貯金銀行(現在のりそな銀行の前身)に入行したが3か月で辞職。銀行退職後、「泰東書道院」が主宰していた月刊誌『書道』の編集部に就職。日本出版協会に勤める。また同年、長女・美夏江が誕生している。
1942年に召集され、相模原第89重砲連隊入営。3週間の基礎訓練を終えたのちに、医学部に在籍していたことから衛生兵となる。相模原陸軍病院に配属されたのち、横須賀陸軍病院へ転属勤務。1945年衛生兵として輸送船で南方へ派遣される途中、バシー海峡にて敵襲に遭い、乗艦が撃沈、7時間漂流する。漂流中はひたすら北宋漢詩を詠じていたという。
奇跡的に救助された後、田所太郎大橋鎭子らと『日本読書新聞』の再刊にたずさわった。のち雑誌『書評』編集長となり、また『三田文學』等に文芸評論を発表する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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