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柴田顕正 : ミニ英和和英辞書
柴田顕正[しばた]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しば]
 【名詞】 1. brushwood 2. firewood 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
顕正 : [けんしょう]
 (n) (gen) (Buddh) revealing or demonstrating the truth
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

柴田顕正 : ウィキペディア日本語版
柴田顕正[しばた]

柴田 顕正(しばた けんせい〔読みがなは『全岡崎知名人士録』(1962年)と『岡崎の人物史』(1979年)に拠った。『新編 岡崎市史 総集編 20』(1993年)は「あきまさ」とある。〕、1873年7月15日 - 1940年4月20日)は、日本の郷土史家、教育者。『岡崎市史』全8巻(1926年~1930年)とその別巻である『徳川家康と其周囲』全3巻(1934年~1935年)を半生を傾けて完成させた。正式には「柴田顯正」と表記。
== 経歴 ==
愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に伊賀八幡宮社司の柴田顯光の長男として生まれる〔『新編 三河知名人士録』 273頁。〕。額田郡第十六番小学八幡学校(現・岡崎市立広幡小学校)を出たのち上京〔『岡崎の人物史』 227頁。〕。1890年(明治23年)國學院大學卒業後、史学者の三上参次のもとで教科書編集の仕事に携わった。
石川県立七尾中学校(現・石川県立七尾高等学校)の教諭を経て、1905年(明治38年)に京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)の教諭となる〔『新編 岡崎市史 総集編 20』 184頁。〕。やがて郷里の岡崎に帰り、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)で国語・漢文・歴史・英語などを教えた。
郷土の歴史に関心をもった柴田は中学校に勤めるかたわら、1918年(大正7年)4月17日千賀千太郎岡田撫琴小瀧喜七郎らと共に「汲古会」(きゅうこかい)を結成し、史料収集の仕事に取りかかった〔『新編 岡崎市史 総集編 20』 485頁。〕。こうした大学卒業以来の諸活動は市当局を動かし、翌1919年(大正8年)、岡田撫琴の推薦と本多敏樹市長の要望により初代岡崎市立図書館長に就任した。「図書館の役割は、学者を育てるより、立派な岡崎市民を育てることにあり」との信念のもと、理化学・商工業に関する書籍を盛んに集め、文化財を調査し、展覧会を開き、市民の文化の振興に努めた〔。また柴田は岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)の嘱託教員も兼務した。
1920年(大正9年)、市より正式に市史編纂の仕事を依頼される。私財を投げ打って史料収集に奔走、広く関係文献を渉猟して著した『岡崎市史』全12巻は1935年(昭和10年)に完成する〔『全岡崎知名人士録』 7頁。〕。特に別巻の『徳川家康と其周囲』3巻は、山岡荘八の代表作『徳川家康』の資料となったことで名高い。「私の小説『徳川家康』は、一にも二にも先生の『徳川家康と其周囲』に負うものです」と山岡は述べている〔『岡崎の人物史』 229頁。〕。
『人物篇』全3巻の脱稿後、1940年(昭和10年)4月20日、病に倒れ死去。。
『人物篇』の稿本は出版されることなく、1945年(昭和20年)7月20日未明の岡崎空襲で赤レンガ造りの市立図書館にあった収集史料約20万点と共に焼失してしまう〔。1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される〔『新編 岡崎市史 総集編 20』 615頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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