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柿谷 曜一朗(かきたに よういちろう、1990年1月3日 - )は、大阪府大阪市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・セレッソ大阪所属。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。 == 経歴 == === セレッソ大阪 === 4歳からセレッソ大阪の下部組織で育つ。 追手門学院大手前高等学校在学中の2006年、クラブ史上最年少の16歳でトップチームとプロ契約を結び、C大阪と業務提携しているウィザス高等学校(現 第一学院高等学校)に転校した。同年5月には短期海外研修として、アーセナルやインテルミラノのユースの練習に参加〔柿谷曜一朗選手の海外クラブへの短期研修のお知らせ | セレッソ大阪 CEREZO OSAKA OFFICIAL SITE 2006年5月1日〕。9月に開催されたAFC U-17アジア選手権では唯一、プロ選手として大会に出場し優勝に貢献。自身も大会MVPに選出された。11月26日のJ1第33節大宮アルディージャ戦で、Jリーグ初出場を果たす。 2007 FIFA U-17ワールドカップのナイジェリア戦で、出場時間900分に達し、プロA契約を締結〔柿谷曜一朗選手 プロA契約に変更 | セレッソ大阪 CEREZO OSAKA OFFICIAL SITE 2007年9月1日〕。大会中、フランス戦およびハイチ戦にて得点を挙げ、同大会にて最も素晴らしいゴールを挙げた得点者と評された〔Eaglets rejoice in hat trick FIFA公式サイト 2013.12.21 02:58 (UTC)〕。クラブでは、J2第12節ザスパ草津戦で当時のJ2最年少得点記録(17歳3ヶ月25日)となる得点を決めたものの、同期入団の香川真司がレヴィー・クルピ監督に見出されレギュラーとして活躍する中、21試合2得点と目立った成績は残せなかった。 プロ3年目の2008年、早稲田大学人間科学部eスクール(通信教育課程)に合格〔Jリーグ - 早稲田大学人間科学部eスクールにJリーグ所属選手9人が合格 2008年1月25日〕。背番号を「11」へ変更して臨んだシーズンだったが、横浜F・マリノスから途中加入した乾貴士の台頭もあり、終盤にはベンチ外となるなど、出場機会は減少。無得点のままシーズンを終えた。また、この年のAFC U-19選手権でもベスト8で敗退し、FIFA U-20ワールドカップへの出場権を逃してしまった。 2009年には練習への遅刻を繰り返すようになり、第3節栃木SC戦終了後、クルピ監督から名指しでプロ意識の欠如を指摘されたが〔J's GOAL | J's GOALニュース | 【J2:第3節 C大阪 vs 栃木】レヴィークルピ監督(C大阪)記者会見コメント 2009年3月22日〕、同時にクルピは香川と比較する形で「シンジとヨウイチロウ、非常に対照的なところがあり、シンジの場合はプロフェッショナルとして責任感が強いが故に、ミスを恐れてしまうところがある。逆にヨウイチロウは責任感がないが、故に、時として非常に勇気のあるプレーができる。好対照なふたりだが、お互いそういったところを変えていけば、間違いなく日本を代表する選手になると思う」と、期待を込めたメッセージを送った〔。しかし、2得点を決める活躍を見せた第20節ファジアーノ岡山戦の翌日、練習に遅刻した柿谷に対し、クルピは「彼の行為はすべてのサポーターやクラブに対しての裏切りだ」と激怒〔C大阪柿谷6度目遅刻に罰金「裏切りだ」 - サッカーニュース : nikkansports.com 2009年6月11日〕。約1週間後の6月18日、徳島ヴォルティスへの期限付き移籍が発表された〔柿谷 曜一朗選手 セレッソ大阪より期限付き移籍加入のお知らせ 2009年6月17日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柿谷曜一朗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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