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「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(かきくえばかねがなるなりほうりゅうじ)は、正岡子規の俳句。生涯に20万を超える句を詠んだ子規の作品のうち最も有名な句であり、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」と並んで俳句の代名詞として知られている〔夏井いつき選 「子規二十四句」『正岡子規』 河出書房新社<KAWADE道の手帖>、2010年、21頁〕 。初出は『海南新聞』1895年11月8日号。 季語は柿(秋)。「法隆寺の茶店に憩ひて」と前書きがある〔ただし初出の『海南新聞』1895年11月8日号では前書きは「茶店に憩ひて」となっている。「病余漫吟」では「法隆寺茶店にて」。「病床六尺」では上五が「柿食へば」。『寒山落木』『獺祭書屋俳句帖抄上巻』では前書き・表記とも掲出したものに同じ。(宮坂、129頁)〕。法隆寺に立ち寄った後、茶店で一服して柿を食べると、途端に法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋を感じた、というのが句意である〔宮坂、129頁〕。「くへば」は単に「食べていると」という事実を述べて下に続けているもので「鐘が鳴るなり」と因果関係があるわけではない〔。柿は大和名産の御所柿と思われる〔。 == 成立 == 1895年5月、子規は連隊付き記者として日清戦争に従軍中に喀血、神戸に入院したのち故郷松山に戻り、松山中学の教員として赴任していた夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)に50日ほど仮寓した。漱石は2階、子規は1階に棲み、子規は柳原極堂ら松風会のメンバーに漱石を加えて句会三昧の日々を過ごしていた。その後病状がよくなったため10月下旬に帰京するが、その途中で奈良に数日滞在している。 子規の随筆「くだもの」(『ホトトギス』1901年4月号掲載)によれば、このとき子規は漢詩にも和歌にも奈良と柿とを配合した作品がないということに気付き、新しい配合を見つけたと喜んだという〔正岡(1985)、174-175頁〕。そして「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」「渋柿やあら壁つゞく奈良の町」「渋柿や古寺多き奈良の町」などの句を続けて作った〔坪内、121-122頁〕。もともと子規は大の柿好きで、学生時代には樽柿(酒樽に詰めて渋抜きした柿)を一度に7、8個食べるのが常であった〔正岡(1985)、167頁〕 。1897年には「我死にし後は」という前書きのある「柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし」という句を作っている〔坪内、122-123頁〕。 さらに「くだもの」では、奈良の宿先で下女の持ってきた御所柿を食べているとき、折から初夜を告げる東大寺の釣鐘の音が響いたことを記している〔。しかしこのときは「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」として柿の句にはせず、翌日訪ねた法隆寺に柿を配した。ただし子規が法隆寺を参詣した当日は雨天であったため、この句は実際の出来事を詠んだものではなく、法隆寺に関するいわばフィクションの句であると考えられる〔宮坂、130頁〕。なお当時の子規の病状などから考えて、実際に法隆寺を参詣したこと自体を疑問視する意見もある〔和田悟朗 「子規と法隆寺」「岳」1987年7月号(宮坂、131頁より)〕。 また『海南新聞』の同年9月6日号には、漱石による「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という、形のよく似た句が掲載されていた。坪内稔典は、子規が「柿くへば」の句を作った際、漱石のこの句が頭のどこかにあったのではないかと推測している〔坪内、122頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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