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栃東 知頼(とちあずま ともより、1944年9月3日 - )は、福島県相馬郡(現在の相馬市)出身(出生地は茨城県筑波郡)の元大相撲力士。春日野部屋所属。最高位は東関脇(1970年3月場所)。本名は志賀 駿男(しが はやお)。現役時代の体格は178cm、115kg。得意手は左四つ、上手出し投げ、右四つ、寄り。 引退後は年寄・玉ノ井(13代)を襲名し、春日野部屋付きを経て玉ノ井部屋を創設した。次男・太祐は四股名栃東を譲り受けて大関まで昇進。現役引退後は年寄・栃東を襲名して父の下で部屋付き親方となった後、部屋を継承した。 ==来歴== 中学・高校と野球部に在籍。高校時代に野球部と相撲部を兼任していた顧問に相撲の大会に助っ人として出場するように言われ優勝する。原町工業高校を中退後、1960年秋に春日野部屋に入門。横綱・栃錦が春日野部屋継承後に入門した力士(いわゆる直弟子)では初の関取である。 現役時代は身長177cm・体重115kgの小兵で、横綱・大鵬45連勝の直前の黒星(1968年9月場所初日)をつけるなど、春日野部屋伝統の技能派力士として知られた。殊勲賞4回はいずれも技能賞とのダブル受賞。立合い鋭く右前褌左おっつけで寄り進むか、左を差して浅い上手からの出し投げを繰り出す正攻法の取り口で、頭を決して上げず、前捌きも巧みだった。 辛らつな批評で知られた玉の海も「こんな巧みな相撲は見た事がない。」と批評するほどだった。技能派大関誕生の期待もかけられたが、肝炎による休場と両膝の故障で大成を阻まれた。三賞を10回以上受賞した力士の中でも師匠の春日野と並んで敢闘賞を受賞した経験がなく、その内年6場所制定着以降に入幕した力士としては栃東ただ1人が該当する。 1972年1月場所(地位は西前頭5枚目)では11勝4敗という15日制初の11勝での成績(1996年11月場所には武蔵丸が同記録で優勝)で幕内最高優勝を果たしているが、千秋楽、大関・清國との一番に負ければ8人の5敗力士による優勝決定戦になるところであった。この場所初日、いきなり横綱・北の富士と大関・琴櫻との対戦が組まれ、北の富士は14日目より休場。また大関・大麒麟、同・前の山がそれぞれ全休・途中休場するなどの影響で上位の取組編成は混乱し、ついには平幕力士が千秋楽結びの一番に相撲を取るという異例の事態〔昭和の東西合併直後の1927年1月場所以来のことで、その後も出ていない〕となっていた)。 現役時に関脇・長谷川に対して、「顔も見たくない」と発言した事があった(現役時代の対戦成績は8勝22敗)程、長谷川を苦手とした。 現役時代から雄弁な理論家で知られ立会前の作戦から相撲展開まで取組直後でも沈着に応答出来る数少ない力士であったという。 秋場所は栃東にとって抜群に縁起が良く1970年を除いて初土俵から引退まで秋場所で負け越しを経験していない。それに留まらず1968年と1969年には殊勲賞と技能賞をダブル受賞しており、特に前者に至っては柏戸・大鵬の両横綱から金星を2個獲得する殊勲の星まで伴っていた。 現役引退後は年寄・13代玉ノ井を襲名、春日野部屋付き親方となり、先代からも分家独立の許可を得ていたが、長らく部屋付親方として後進を指導していた。1990年、師匠の逝去を受け、〔実際には停年直前に逝去。〕正式に独立、玉ノ井部屋を創設。次男・太祐が自らの部屋に入門すると、スピード出世で十両に昇進。昇進を期に自身の現役時代の四股名を継がせた。 協会では、審判委員等を歴任し、2007年1月に役員待遇(指導普及部副部長・生活指導部副部長)に昇格した。 2009年9月2日を以て日本相撲協会を停年退職。翌9月3日付で次男の栃東大祐が年寄・14代玉ノ井を襲名、並びに玉ノ井部屋師匠を継承した。 停年退職後の平成24年2月22日、23日、文化放送のラジオ番組「ミュージックギフト〜音楽・地球号」の「福島ウィーク」にゲスト出演。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栃東知頼」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tochiazuma Tomoyori 」があります。 スポンサード リンク
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