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栃王山 裕規(とちおうやま ゆうき、本名:神谷 静(かみたに しずか)、1943年3月1日-2001年3月31日)は、愛知県名古屋市中村区出身で、春日野部屋に所属した大相撲力士。最高位は西前頭筆頭(1969年1月場所、1970年9月場所)。現役時代の体格は174cm、112kg。得意手は右四つ、寄り、上手出し投げ、下手投げ、突き落とし。 == 来歴・人物 == 幼少時は体が弱く、結核にも罹ったものの運動神経は抜群で、なかでも相撲は小学校のころから始めていた。 中京商業高校(現・中京大学附属中京高校)を1年生の途中で中退、横綱・栃錦に憧れて上京し、彼が所属する春日野部屋の門を叩いた。 1958年11月場所に於いて、15歳で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名でもある「神谷」。 出世は順調で、1962年5月場所では十両に昇進。1963年1月場所にて、初土俵から約4年2ヵ月、19歳の若さで新入幕を果たした。なお、「栃王山」の四股名に改めた時期は、十両昇進直前の1962年1月場所前だった。 その後は幕内下位と十両の往復が続いたが、1965年7月場所で4度目の入幕を果たし、同場所では自己最多の11勝を挙げて敢闘賞を受賞した。 これが自信となったか、ここから番付も上昇、1966年1月場所では横綱・佐田の山を破って初の金星を獲得した。 しかし同年7月場所、場所前日の福の花との稽古で右目を負傷。これが眼底出血に加えて網膜剥離と診断される重傷で、初日不戦敗ののち休場、再び十両に陥落してしまった。なお、初日の対戦相手で不戦勝を得た相手は、稽古相手の福の花だった。 十両で迎えた翌9月場所も全休して幕下陥落の危機に直面したが、ここから盛り返し、ケガから約2年後の1968年5月場所に於いて見事幕内にカムバック。さらに1969年1月場所では自己最高位となる西前頭筆頭まで進み、11日目には1敗で大鵬と優勝争いをしていた横綱・柏戸を下手投げで破り、2個目の金星をものにした。 しかしその翌日左腰を捻挫したため休場、その後3年近く幕内中位で活躍したが再び視力が低下し、6度目の入幕となった1972年1月場所で2勝13敗と大敗したことを契機に引退した。 若い頃に栃ノ海の付け人をしており、栃ノ海同様の小兵ながらきびきびとした動きで、土俵狭しと動き回る取り口で相手から嫌がられた。栃錦に憧れていただけあって仕切りの表情や所作は自ら栃錦を真似して、これがよく似ていたため人気があった。本場所ではやらなかったが、花相撲では弓取式も務めた。 引退後は年寄・清見潟を襲名して、日本相撲協会に残ったが、1976年10月に廃業した。 現役時代から商才があったようで、いくつかの飲食店を経営していた。廃業後は本格的に、郷里の名古屋で、友人でもあった北の富士と共同で開いたキャバレーを経営するなどしていた。 2001年3月31日、逝去。享年58。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栃王山裕規」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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