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栄丸遭難事件(さかえまるそうなんじけん)は、太平洋戦争終戦直後の1945年(昭和20年)11月1日に、台湾から宮古島へ向かった密航船「栄丸」がエンジン故障のため座礁沈没し、台湾疎開からの帰還者ら約100人が死亡した海難事故である。日本が連合国の占領下に置かれて沖縄への引き揚げ事業が実施できない間に、民間の自力引き揚げの過程で発生した事件であった。 == 事件の経過 == 1945年11月1日午後6時頃、台湾北部基隆港に碇泊中の「栄丸」へ、密航を警戒中の中国国民党軍の目を盗んで乗客の乗船が始まった。「栄丸」は、戦時中から基隆のドックにあった廃船の船体に老朽機材を寄せ集めて整備した、焼玉機関搭載の小型船であった〔沖縄県教育委員会(1974年)、404-405頁。〕。乗船には切符が必要だったが〔乗船者名簿は作成されておらず、直前に乗船を止めたり、逆に飛び乗りをする者もあって正確な乗船者数は不明である〔沖縄県教育委員会(1974年)、403頁。〕。最終的に宮古列島からの疎開者を中心に100人以上が乗り込んだのは確実で、八重山列島関係者も9人以上含まれていた〔「八重山関係者も8人が死亡 台湾引揚船“栄丸”遭難事故 」『八重山毎日新聞』 2007年8月26日。〕。 1日午後7時頃、「栄丸」は、夜陰にまぎれて基隆から宮古島へ出航した。45分ほどで港外に出たが、波が荒いため渡航を断念して引き返すことを決めた〔。しかし、反転と同時にエンジンが故障し、台湾沿岸約400mの東シナ海上を漂流する状態に陥った〔。救助を求めるために衣類を燃やして陸上へ合図したが、反応は無かった。故障から4時間半ほど経過した頃に約20戸の万里集落の沖に差し掛かると、海岸から100mほどの地点で岩礁に乗り上げ、繰り返し打ち付ける波を受けて翌朝までに船体が崩壊した〔。 乗船者は次々と波にさらわれて海に投げ出され、付近一帯の岩礁に叩きつけられるなどして多くが死亡した。万里集落の台湾人住民と、同地にまだ駐屯していた日本軍の通信部隊が海岸で救助活動にあたったが、助かったのは海岸に泳ぎ着くか打ち寄せられた一部の者だけであった〔。多数の遺体も海岸に打ち上げられたが、遅く漂着した遺体には手足が欠損するなど損傷の激しい例が多かった〔沖縄県教育委員会(1974年)、408-409頁。〕。遺体は、同じく漂着した船材に油をかけて燃やして火葬された。生存者は、廃屋に仮住まいしたり、基隆の病院に入院するなどし、一部は12月にかけて帰国した〔沖縄県教育委員会(1974年)、406-407頁。〕〔。 乗船者数が不明のため正確な犠牲者数も不明であるが、ある生存者証言によると全乗船者数183人・生存者32人〔、別の証言によると乗客数172人・生存者32人である〔。乗客数127人・生存者23人とする証言もあるが、前記2証言と照らすと乗客数172人・生存者32人に由来する誤りの可能性がある〔平良市史編さん委員会(1981年)、45頁。〕。また、事件当時に引き揚げ支援のため台北市にいて2日朝から遺体収容に参加した下地町助役の証言によると、死者数は105人程度であるという〔。沖縄県生活福祉部援護課所蔵の『台湾引揚者調書』(1969年調整)には、本事件関係で89人の死者が確認できる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栄丸遭難事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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