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栄国寺(えいこくじ)は、愛知県名古屋市中区橘にある浄土宗の寺院。山号は「清涼山」(せいりょうざん)。栄國寺とも表記される。 == 由緒 == 寛文4年(1665年)、徳川光友が、刑場を千本松原から土器野(現・清須市)に移し、千本松原刑場跡地に、西光院第九世任空可信を開祖として開基する。 尾張藩の初代藩主徳川義直、二代目の徳川光友は、徳川のキリシタン弾圧の時代においても、当初はキリシタンに寛容であったとされている〔尾張のキリシタン-栄国寺~野村純一カトリック司教らによる顕彰碑文 〕。寛永8年(1631年)より、藩内でキリシタン伝道に携わった者の処刑を始める。寛永21年(1644年)から、正保2年(1645年)にかけて名古屋城中からもキリシタンが捕らえられ処刑された。この地で処刑された彼らキリシタンを弔うため町岡新兵衛は、慶安2年(1649)この処刑地に石の供養塔を建立した。寛文元年(1661年)春以来数多くのキリシタンが藩内の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女二百余人だけを、寛文四年十二月十九日(1665年2月3日)千本松原刑場で処刑し、他のキリシタンの助命をはかった。しかし、幕府の命令により、結局捕縛させた二千人余のキリシタン全員を寛文7年(1668年)に、別の地にて処刑することとなった。このとき、尾張のキリシタンは、ほぼ絶滅したとされる〔尾張のキリシタン 〕。 寛文4年(1665年)、徳川光友が、刑場を千本松原から土器野に移し、千本松原刑場跡地に、その跡に菩提のため「清涼庵」を開基する。初代の開祖は、西光院第九世任空可信である。本尊の阿弥陀如来像は、尾張北部の丹羽郡塔ノ地村・薬師寺のから千人塚別名切支丹塚の菩提のため、徳川光友が移させた仏像で、「火伏不思議の弥陀」と称せられ、鎌倉時代の仏工・春日の作と伝えられる。貞享2年(1685年)、名称が「栄國寺」と改められる。 栄国寺は、尾張徳川家の庇護の下、存続し、明治大正昭和と伝統が受け継がれる。太平洋戦争中1945年の名古屋爆撃の際、栄国寺周辺は、焼夷弾の被害がなかったという奇跡が伝えられている。1969年、切支丹遺跡博物館〔切支丹遺蹟博物館とも〕が境内に建てられる。1986年より、カトリック名古屋教区の主催で境内で「名古屋殉教者祭」としてミサが行われている。2010年は、2月6日に行われた。1996年11月23日には、カトリック名古屋教区による顕彰碑が建てられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栄国寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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