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栄 毅仁(えい きじん、ロン・イーレン、1916年5月1日 - 2005年10月26日)は中華人民共和国の政治家、実業家。中国国際信託投資公司(CITIC)の創設者で、「赤い資本家」と呼ばれた。1993年から1998年まで中華人民共和国副主席を務めた。 == 経歴 == 父は民族資本家の栄徳生であり、上海を中心に多くの企業を経営していた。1937年に上海聖ヨハネ大学を卒業した栄毅仁は、その後、父の事業を受け継ぎ、繊維工場を経営する。中華人民共和国建国後も上海に残留し、資産を政府に上納して協力する。1950年、中国民主建国会(民建)に参加し、中国人民銀行常務理事、全国政治協商会議委員を経て、1957年、上海市副市長に就任。 文化大革命では走資派として批判され、1967年に失脚したが、1972年に復活を遂げる。1979年、鄧小平によって、改革開放が開始されると、国策会社「中国国際信託投資公司(CITIC)」を設立し、初代董事長兼総経理に就任する。日本、アジア、欧米諸国を歴訪し、外資導入を働きかけた。鄧小平指導下の中国共産党との密接な関係から「赤い資本家」の異名を取る。 1978年に全国政治協商会議副主席となり、1983年、全国人民代表大会常務副委員長に選出。1985年7月1日、中国共産党に入党〔栄毅仁が死去した際に新華社が発表した公式履歴による。「栄毅仁同志生平」新華社、2005年11月3日付配信記事。〕。1993年、国家副主席に選出される。1998年に退任。 2005年1月に死去した趙紫陽・元共産党総書記の葬儀に花輪を贈った数少ない指導者の一人。天安門事件前に趙紫陽に対して、書簡を送り、学生との対話促進や、民主化と法制の強化、清潔な政治の確立などを訴えていた。2005年の春節では、共産党指導部に対し、意見書を送り、蔓延する汚職に対して危機感を訴えていた。 2005年10月26日、北京で死去。 日本との関係では、全人代副委員長時代の1985年と国家副主席時代の1994年に二度訪日し、それぞれ、当時の中曽根康弘首相、村山富市首相と会談している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栄毅仁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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