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栄 臻(えい しん)は中華民国の軍人。北京政府・奉天派に属し、後に汪兆銘の南京国民政府に参加した。字は翕生。 == 事績 == 1912年(民国元年)、保定陸軍軍官学校第1期砲兵科に入学した。1914年(民国3年)11月に卒業後、奉天派の李景林率いる部隊に所属している〔徐主編(2007)、2329頁。〕。 1925年(民国14年)7月9日、陸軍少将に任命された〔『政府公報』第3330号、1925年(民国14年)7月10日。〕。1926年(民国15年)、東北陸軍第1師第43旅旅長に昇進し、張学良配下となった〔。1927年(民国16年)2月1日、陸軍中将となり〔『政府公報』第3875号、1927年(民国16年)2月2日。〕、4月1日には仁威将軍位を授与された〔『政府公報』第3932号、1927年(民国16年)4月2日。〕。また、同年中には第4方面軍第17軍軍長に任命され、翌1928年(民国17年)、東北辺防軍司令部軍事庁庁長となった〔。 易幟後の1929年(民国18年)3月13日、栄臻は国軍編遣委員会第5編遣区弁事処副主任委員に任ぜられる〔『国民政府公報』第115号、4頁。〕。1931年(民国20年)、東北辺防軍司令長官公署参謀長となり、満州事変(九・一八事変)の対応において張学良を補佐した〔。翌1932年8月19日には、国民政府軍事委員会北平分会常務委員となる〔『国民政府公報』洛字第17号、42頁。〕。1935年(民国24年)、陸軍中将となった〔『国民政府公報』第1708号、12頁。〕。 1943年(民国32年)6月10日、栄臻は張学銘と共に南京国民政府の軍事委員会委員に任ぜられ〔「栄臻、張学銘両氏軍事委員に」『読売新聞』昭和18年(1943年)6月11日夕刊、1面。〕、8月6日には華北政務委員会華北剿共委員会事務主任を兼任している〔「世界の鼓動 華北剿共委員主任」『朝日新聞』昭和18年(1943年)8月6日、2面。〕。秋には、剿共委員会委員長に昇進した。11月、蒋介石の重慶国民政府から、陸軍中将の位を剥奪されている〔。1944年(民国33年)6月、華北政務委員会特別法庭華北分庭庭長に任命され〔、1945年(民国34年)2月20日、河北省省長となった〔「北京、天津両市長等決る」『朝日新聞』昭和20年(1945年)2月21日、1面。〕。4月、華北政務委員会保定綏靖主任を兼任している〔。 日本敗北後、栄臻は蒋介石の国民政府に逮捕され、軍事法廷で死刑判決を言い渡された〔余ほか(2006)、1422-1423頁。〕。しかし実際の執行状況は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栄臻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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