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栗原 兵庫(くりはら ひょうご)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。甲斐山梨郡栗原郷や東郡を支配した領主。諱は信友(のぶとも)か。栗原家は武田家の支流にあたる名族である。 == 生涯 == 栗原昌種の子とされる〔。昌種は永正5年(1508年)に油川信恵に属して信虎に反抗し、敗死した〔 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.56〕〔。この兵庫も信虎に反抗し、永正17年(1520年)5月に大井信達、今井信是らと結んで反乱を起こした(『勝山記』)。これは信虎が甲府に移転した際、家臣に甲府への集住を命じたためによる反抗とされる〔 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.61〕。 6月8日、信虎は都塚(現在の笛吹市一宮町)で栗原軍を大いに破り(都塚の戦い)、兵庫は居館の栗原館(現在の山梨市)に立て籠もった(『勝山記』)。しかし信虎に包囲され、武蔵秩父に落ち延び、後に信虎に許しを願って許諾され、和睦して甲斐に戻った(『王代記』)。 享禄4年(1531年)1月、諏訪頼満、今井信元、飯富虎昌と結んで再度信虎に反抗する〔 柴辻俊六・平山優 編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、p.29〕〔 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.63〕。しかし4月12日(3月12日説もある)の韮崎郊外における河原辺の戦いで信虎に大敗し、兵庫は戦死した(『妙法寺記』『当社神幸記』『諏訪神使御頭之日記』『王代記』)。 信友と兵庫に関しては別人説もある〔 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.197〕。信友は都塚敗戦で恩赦を受けて帰国してからの動向に不明な点が多く、兵庫は信友の子ではないかとする説もある〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栗原兵庫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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