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栗城 史多(くりき のぶかず、1982年6月9日 - )は、日本の登山家〔栗城史多氏、エベレスト登頂断念 4度目山頂アタックも無念の下山(オリコンスタイル) 〕、起業家。株式会社たお代表取締役。北海道瀬棚郡今金町出身〔ザ・ノンフィクション・『山のバカヤロウ2登山家 栗城史多』、フジテレビジョン、2012年5月6日放送〕。北海道檜山北高等学校〔http://www.econakoto.net/kuriki/article/186〕、札幌国際大学人文社会学部社会学科卒業〔卒業生(栗城史多)のインタビュー記事・2007年 札幌国際大学、2011年3月10日閲覧。〕。よしもとクリエイティブ・エージェンシーと2011年9月から業務提携〔登山家・栗城史多氏が吉本と業務提携 3度目のエベレスト遠征へ 2011年08月25日 オリコンランキング、2012年1月11日閲覧。〕〔エベレスト無酸素・単独登頂に挑戦する登山家・栗城史多さんがよしもとと業務提携!! 2011年8月25日 よしもとニュースセンター、2012年1月11日閲覧。〕。 「冒険の共有」をテーマに全国で講演活動を行いながら、年に1、2回ヒマラヤ地域で高所登山を行っている。エベレストには単独無酸素登頂と頂上からのインターネット生中継〔テレビ放送における世界初のエベレスト山頂衛星生中継は1988年5月5日に日本テレビチョモランマ登山調査隊によって行なわれた。〕 を目指し、2009年9月チベット側、2010年9月ネパール側から挑んだが、8,000mに達することが出来ず敗退〔登山用語で、登頂をあきらめて引き返すこと。〕。2011年8〜10月に前年と同じネパール側から3度目の挑戦をしたがサウスコル7900mに達せず敗退。2012年10月に西稜ルートから4度目の挑戦も強風により敗退。この時受傷した凍傷により、のちに両手の指9本を切断。しかし、2015年8月末の5度目のエベレスト登頂も敗退した。 == 経歴 == 「元ニート」 「元引きこもり」 を自称しているが〔栗城史多公式サイト プロフィール 2011年8月11日閲覧。〕、これはあくまでキャラクター作りのための設定であり、実際にはそのどちらでもない〔著書「一歩を越える勇気」 実際には高校卒業後に1年間のフリーター生活をしている。〕〔AERA2007年10月1日増大号 朝日新聞、2011年1月27日閲覧。〕。「元ニート」を名乗るようになったきっかけは、栗城の全国デビューとなる企画に、「電波少年」で知られる日本テレビプロデューサーの土屋敏男が『ニートのアルピニスト、初めてのヒマラヤ』というタイトルをつけたためである〔栗城史多のインタビュー記事 ファウストA.G.、2011年8月11日閲覧。〕。 * 1982年6月9日 - 北海道瀬棚郡今金町に生まれる。 * 2002年年末 - 中山峠から小樽市の銭函まで、1週間程度の雪山(標高1,000m前後)の年越し縦走を行った。 * 2004年5月21日 - マッキンリー登頂に向けて日本から出発。初の海外旅行。 * 6月12日17時10分 - マッキンリー(北米最高峰 標高6,194m)登頂。 * 2005年1月 - アコンカグア(南米最高峰 6,959m)登頂。 * 6月 - エルブルース(ヨーロッパ最高峰 5,642m)登頂。 * 10月 - キリマンジャロ(アフリカ最高峰 5,895m)登頂。 * 2006年10月 - カルステンツ・ピラミッド(オセアニア最高峰 4,884m)登頂。 * 2007年5月 - チョ・オユー(世界第6位高峰 8,201m)登頂。7,700m地点からスキー滑降した。 * 12月 - ビンソンマシフ(南極大陸最高峰 4,892m)登頂。 * 2008年10月 - マナスル(世界第7位高峰 8,163m)に「無酸素」「単独」登頂したと主張するが、ヒマラヤン・データベース、日本山岳会の双方から登頂を認定されていない〔Autumn 2008 Manaslu continued HimarayanDatabase * indicates fore-summit only〕〔Japanese 8000m Climbers List(pdf文書) 日本山岳会公式サイトからのリンクはの右欄の「8000m峰登頂者リスト」。〕。 * 2009年5月 - ダウラギリ(世界第8位高峰 8,167m)登頂。インターネット生中継を行う。 * 9月 - チョモランマ・北稜北壁メスナールート(世界最高峰 8,848m)登頂を目指したが、グレートクーロワールに達せず、体力の限界により7,950mで敗退。 * 2010年5月 - アンナプルナ(世界第10位高峰 8,091m)登頂を目指したが、7700mで敗退。 * 8月末から - 二度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート登頂を目指したが、C4サウスコル7,900mに達することができず7,750mで敗退。この挑戦では栗城隊のシェルパが1人死亡している〔栗城史多オフィシャルブログ 2010-08-26 (ウェブ魚拓) 2012年5月14日閲覧。〕。 * 12月 -登山とインターネットを結んだ功績が評価され、ファウスト大賞を受賞〔 。 * 2011年5月 - シシャパンマ(世界第14位高峰 8,013m)の登頂を目指したが体調不良により敗退。南西壁から7600m地点まで〔「EVEREST SHARE」プロフィール 〕。 * 8月末から - 三度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート登頂を目指したが敗退。7800m地点で食料などを埋め、一度ベースキャンプに戻り体調を整えて頂上アタックを目指したが、埋めておいた食料をキバシガラスに荒らされたため登頂を断念したと発表した〔。このアタック開始の際には事前に予定していたC3でのキャンプ設営、馴化のための宿泊をしておらず、大きくルートを外れた雪の斜面に荷物をデポしていた〔公式サイト News 〕。この挑戦では同行スタッフであるフリーカメラマンの木野広明が死亡している。死亡原因はくも膜下出血であった〔。 * 2012年5月 - シシャパンマ登頂を目指したが、7000m地点到達前に進行が不可能になり敗退。下山中に滑落して負傷し、救助に向かったシェルパと共に下山したと発表した〔シシャパンマ南西壁遠征情報(本人の公式サイト) 〕 〔無事に下山いたしました(本人の公式サイト) 〕。なお、序盤の荷上げの際にガレ場で転倒し膝を故障〔栗城史多5月16日のツイート 〕、一旦アタックステージに入りながらロープを取りにベースキャンプに戻り〔栗城史多5月28日のツイート 〕数日浪費するなどの失態を連発。スケジュールが逼迫する中で6000m以上の高度で宿泊する高地順応作業も行わず、当初予定していたC1(6700m地点)、C2(7500m地点)などの中間キャンプの設営も行わないまま深夜の最終アタックに出ていた〔栗城史多Facebookシシャパンマ南西壁遠征情報 〕。 *8月末から - 四度目の挑戦となるエベレスト・西稜ルートで登頂を目指したが7700mで敗退〔『山と渓谷』2012年12月号 P139〕〔『ROCK & SNOW』No,058 P50〕。C2(6400m)地点で人差し指が凍傷に罹患していたにも拘らず登山を続行〔『ノーリミット 終わらない挑戦』(NHK)2012年12月23日放送〕。当初予定していた地点より500m低い7500m地点のC4から最終アタックに出たものの強風のため撤退。凍傷が悪化しC4からの下山が不可能になったため救助を要請し、シェルパによりC2まで下ろされた後、ヘリコプターでカトマンズの病院に搬送された〔〔。 * 2013年11月から2014年1月にかけて、2012年に受傷した凍傷のため両手指9本を切断。〔自身のFacebookで「凍傷で9本の指を失ってからの…」とある。栗城史多Facebook 〕 * 2014年7月24日 - ブロード・ピーク(世界第12位高峰 8,047m)登頂。 * 2015年8月末から - 五度目のエベレスト登山に挑み、南東稜ノーマルルートからの登頂を目指したが、サウスコル付近で敗退〔理性と出発 栗城史多 公式ブログ、2016年1月4日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栗城史多」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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