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栗家山 惠三(くりけやま けいぞう、本名:橘井 恵三(きつい けいぞう)、1938年2月15日 - )は、1956年から凡そ8年間、大相撲の佐ノ山部屋・高砂部屋に在籍した北海道沙流郡門別町(現・日高町)富川出身の力士である。最高位は西前頭5枚目(1962年5月場所)。現役時代の体格は175cm、88kg。得意手は左四つ、突っ張り、寄り。 == 来歴・人物 == 中学校在学時は野球で活躍したが、苫小牧工業高校に進学すると、相撲へ転向した。 高校在学中は、創設されたばかりの相撲部で活躍。3年生時の1955年には、全国高校相撲大会の予選などに出場している。 高砂一門が北海道へ巡業に来た際に角界入りを勧められ、高校卒業後に上京。間も無く、一門のひとつである佐ノ山部屋へ入門した。 初土俵は1956年3月場所での事で、当初の四股名は、出身地の沙流郡門別町富川に由来した「登美錦(とみにしき)」であった(「富川」の「富」は、縁起を担いで「登美」に変えている。「栗家山」に改名したのは、高砂部屋在籍時の1961年1月場所前。なお、その後の改名歴は、下文を参照の事)。 次の5月場所では番付外と新序で続けて好成績を収めたため、同年9月場所では序ノ口を飛び越し、序二段に付け出された。 体重90kgに満たない小兵だったが、突っ張りを得意とし、常に闘志溢れる相撲を展開した。 この後1960年2月、佐ノ山親方(元前頭2・朝響)が亡くなったため佐ノ山部屋は解散し、本家の高砂部屋に移籍した。しかし翌1961年、元小結・國登が引退後佐ノ山の名跡を継いで、程無く部屋を再興。これに伴い、再び佐ノ山部屋に戻っている。 同年5月場所で新十両に昇進し、1962年3月場所で新入幕を果たした。この場所勝ち越し、翌5月場所では西前頭5枚目まで番付を上げた。同場所3日目の大関・北葉山との一番では、敗れたものの善戦し、北葉山に「わしの地元から、いい力士が出てきた」と言わしめた。 7月場所まで幕内の地位を守ったが、小兵ゆえの体力不足と右膝の怪我などが原因で次第に番付を落とし、以降2度と幕内に返り咲く事はなかった。 現役晩年は幕下22枚目まで陥落し、1964年1月場所を以って、25歳の若さで廃業。 廃業後は帰郷し、地元の簡易郵便局に勤務したという。 十両陥落後、大鵬の子供という意味の「太鯤(たいこん)」に四股名を改めていた事がある(1963年7月場所~。だが、改名によるゲン担ぎは成らず、暫くして本名の「橘井」へ再改名している)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栗家山恵三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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