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栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年 - 1977年8月8日)は、日本の実業家。栗林五朔の息子として北海道室蘭市に生まれ、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は父が興した栗林商船に入社し、後に会長を務めた。本業の傍らで競走馬の馬主としても著名であり「ミスター・ケイバ」と呼ばれ〔『日本馬主協会連合会40年史』p.46〕、全日本馬主協会連合会(現・日本馬主協会連合会)会長などを歴任した(後述)。1977年8月8日、肺炎により79歳で死去〔『優駿』1977年9月号 p.92〕。 == 馬主活動 == 叔父の水梨岩太郎の死去に際してその所有馬を譲り受けたことを活動の端緒とし〔『優駿』1977年10月号 p.9〕、以後「クリ」という冠名を使用して、「変則三冠馬」クリフジ(JRA顕彰馬)、帝室御賞典優勝馬クリヒカリ(坂本清五郎から購買。旧名:アルバイト)などを所有。前後して千葉県の羽田牧場の土地を購買して大東牧場を創設し、1952年のクラシック二冠馬クリノハナ、さらにその産駒から天皇賞優勝馬クリペロとクリヒデを生産した。日本においてオーナーブリーダーという存在を確立した人物とも評される〔『優駿』1977年10月号 p.13〕。ほか、故郷室蘭のユートピア牧場も買収している。馬の購買に当たっては縁起を担ぎ、栗毛の馬しか選ばなかった〔『優駿』1977年10月号 p.12〕。 1951年に全日本馬主協会連合会が創設されると、その初代会長に就任。会として軽種馬生産農業協同組合、全日本調教師騎手連合会と共に、当時国営であった競馬の民営化を推進し〔『日本馬主協会連合会40年史』pp.46-47〕、日本中央競馬会発足後は運営審議会委員に任命された〔。馬主会では会長退任以降顧問を務め、表に出ることがなかったが、1965年に小川乕三、川端佳夫の要請を受けて日本馬主協会連合会の第3代会長に就任〔、一期2年を務めた。退任後は名誉会長職が新設され、1975年までその地位にあった〔『日本馬主協会連合会40年史』pp.234-243「歴代役員」〕。 自身が獣医師資格を持ち、馬術にも長けていたことから、こと馬に関しては非常な自信家であった〔『優駿』1977年10月号 p.11〕。また、三船久蔵に教えを受け、柔道七段という練達の人物であり、三船と一緒に落馬時の受け身の取り方について騎手・調教師に対する講習を行ったこともあった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栗林友二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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