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栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(1851年11月29日) - 昭和12年(1937年)11月15日)は、明治・大正期の日本の外交官。初代駐フランス特命全権大使。 == 来歴・人物 == 福岡藩槍術師範・栗野小右衛門の長男として、現在の福岡市中央区に生まれる。幼名は昇。藩校修猷館に学んだ後、西新の瀧田紫城の塾「折中堂」に入門し漢学、国学、蘭学を学ぶ。 慶応元年(1865年)、福岡藩第11代藩主黒田長溥の命により藩費留学生に選ばれ、英語修得のため長崎の何礼之の英語塾に入塾し、同年入塾した陸奥宗光、高峰譲吉、山口尚芳、芳川顕正らと共に学んでいる。しかし、慶応3年(1867年)、ここで同藩士が起した英国水兵殺害事件に巻き込まれ、京都六角の獄に拘留される。明治2年(1869年)に釈放されるが、このことがもとで明治4年(1871年)に同郷の金子堅太郎・團琢磨が渡米した岩倉使節団随行の米国留学からは外された。 しかし、その後も東京で平賀義質のもとで英語修行に励み、明治8年(1875年)に再び藩費留学生に選ばれ米国に留学し、ハーバード大学に入学して法律を専攻する。ハーバード大学では、金子堅太郎や小村壽太郎と親交を結び、同じボストンにあるマサチューセッツ工科大学に学んでいた團琢磨とも親交を深めた。明治14年(1881年)、ハーバード大学を卒業して帰国し、同年12月に外務省に入省する。 外務省では、井上馨外務大臣の下で、明治15年(1882年)8月に権少書記官、明治18年(1885年)3月に条約改正掛、明治19年(1886年)3月に翻訳局次長などを務め、不平等条約の改正会議に備えたが、改正条約草案を巡って青木周蔵外務次官と衝突して外務省を退官。同年4月、榎本武揚逓信大臣の要望により逓信大臣秘書官に転任する。その後、逓信省で参事官や外信局長を歴任し、東京郵便電信学校を設立して初代校長に就任、郵便法や万国郵便電信規則を制定、明治23年(1890年)3月には、パリでの万国電信会議の日本代表を務めた。 明治24年(1891年)5月、榎本武揚が外務大臣に就任し、条約改正に意欲を燃やす榎本は、同年8月、栗野を新設された外務省政務局の初代局長に任命した。明治25年(1892年)9月まで取調局長も兼務している。明治27年(1894年)、陸奥宗光が外務大臣となると、同年7月、陸奥に駐米公使兼駐メキシコ公使に任命され渡米し、米国との条約改正交渉に務め、同年11月にはグレシャム国務長官との間で、日米改正新通商条約の調印を成し遂げる。その後、明治29年(1896年)4月、駐イタリア公使兼駐スペイン公使となり、明治30年(1897年)1月にスペインとの条約改正を成し遂げる。 明治30年(1897年)5月、駐フランス公使となり、駐在武官である同郷の明石元二郎と出会う。明治33年(1900年)には、パリ万国博覧会において、同郷の川上音二郎の公演を支援し大成功を収めている。明治34年(1901年)10月、桂太郎首相に説かれて駐ロシア公使となり、日露戦争開戦直前まで外交交渉に尽力した。このときの駐在武官も明石元二郎であった。明治37年(1904年)2月6日、小村壽太郎外務大臣の命によりロシア政府に宣戦布告文を提出し、ここに日露戦争が開戦した。なお、この宣戦布告文を起草したのは、修猷館の後輩である山座円次郎である。 その後、フランス公使館が大使館に昇格した明治39年(1906年)1月に、初代駐フランス特命全権大使に任命される。明治40年(1907年)6月、日仏協約を締結し、同年、積年の功が認められ男爵位を授けられた。明治44年(1911年)8月、日仏通商航海条約の調印を果たし、ここに全ての列強との関税自主権の回復により不平等条約改正が完了する。 明治45年(1912年)に帰国し、同年3月に子爵位を授けられ、大正2年(1913年)11月に退官。昭和7年(1932年)1月には枢密顧問官に就任している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栗野慎一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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