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根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督、脚本家である。 == 人物・来歴 == 1899年(明治35年)、群馬県前橋市に生まれる。 東京に出て、明治学院、早稲田大学商学部へ進学、劇団での俳優活動を経て、1925年(大正14年)、日活京都撮影所に入社する。同年、同撮影所第二部で製作された村田実・三枝源次郎共同監督による現代劇のサイレント映画『法を慕ふ女』に出演して映画デビューした〔#外部リンク、「根岸東一郎」、日本映画データベース、2009年11月5日閲覧。〕。同社では現代劇俳優であった〔。 1928年(昭和3年)、マキノ・プロダクションに移籍、牧野省三・松田定次共同監督による『雷電』に主演〔、江戸時代の大関・雷電爲右エ門を演じて時代劇俳優に転向した〔雷電 、日本映画データベース、2009年11月5日閲覧。〕。同作にはすでに映画監督としてデビューしていたマキノ正博(のちのマキノ雅弘)が「牧野正博」名義で出演している〔。同年、マキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』に、南光明、谷崎十郎、河津清三郎とともに主演〔、同作は同年のキネマ旬報ベストテン第1位を獲得した。つづいて同年には田村虚舟と共同監督として、『親子鴉』に主演、映画監督としてデビューする〔。 1931年(昭和6年)、『片手無念流 前篇』をマキノ・プロダクションで監督した〔が、同社が製作不能に陥り、河合映画製作社に移籍、第二篇・完結篇を河合で監督し、シリーズを完成した〔。1933年(昭和8年)、河合映画が大都映画に改組してからも、ひきつづき監督業を務めた〔。河合・大都では出演作はない〔。 1935年(昭和10年)、マキノ正博がマキノトーキー製作所を設立するや、同社に移籍し、早速『無鉄砲選手』を監督する〔。11作のトーキーを監督、マキノが監督した『丹下左膳 乾雲必殺の巻 第一篇』、『丹下左膳 坤竜呪縛之巻』に出演した〔。1937年(昭和12年)4月に同社は解散となる。 1939年(昭和14年)、日活京都撮影所で数本の映画に出演した以降の記録がない〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「根岸東一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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