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根岸鎮衛 : ミニ英和和英辞書
根岸鎮衛[ねぎし しずもり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こん, ね]
 【名詞】 1. root 
: [きし]
 【名詞】 1. bank 2. coast 3. shore 

根岸鎮衛 : ウィキペディア日本語版
根岸鎮衛[ねぎし しずもり]

根岸 鎮衛(ねぎし しずもり、やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本勘定奉行南町奉行を歴任した。
== 生涯 ==
150俵取りの下級旗本の安生太左衛門定洪の3男として生まれた。江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、宝暦8年(1758年)、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、22歳の鎮衛に根岸家の家督を継がせた(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であるため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある)。
鎮衛は、根岸家の家督相続と同時に勘定所御勘定という中級幕吏となり、頭角をあらわし、5年後の宝暦13年(1763年)には評定所留役(評定所は現在の最高裁判所に相当し、留役はその予審の判事)となり、更に5年後の明和5年(1768年)には勘定組頭、10年後の安永5年(1776年)には42歳にして勘定吟味役につき、布衣を着ることを許される(六位相当)。
勘定吟味役在任時に河川改修、普請工事に才腕を揮った。日光東照宮や禁裏・二条城等の修復、東海道や関東の諸所の川普請などを行ったとされる。
天明3年7月8日(1783年8月5日)の浅間山噴火(天明噴火)ののち、8月17日、川越藩〔被災地域である浅間山~上野国前橋を領していた〕から月番の老中へ提出された被害届を元に。幕府は浅間山復興工事の巡検役(検分使)として鎮衛を任命した。一行を率いて8月28日に江戸を立ち、9月2日上州渋川に入り、被災した村々を巡見した。9月28日、武蔵国本庄宿にて川越藩役人らと協議、幕府の救済方針を伝えた〔被災地の内、天領分は幕府が復興するのだが、川越藩領の被災地は私領なので川越藩が自前で復興すべきだが、被害が甚大なので幕府からも支援がなされた。上州から武蔵国に渡る被害地域の本格復興は御手伝御普請として、肥後熊本藩が担当し、莫大な金銭と労力が投入された。〕。これらの功績などにより翌4年(1784年)に佐渡奉行に昇格し、50俵加増となる。
天明6年(1786年)、天明の大飢饉天明の打ちこわしなどののち田沼意次が失脚し松平定信老中首座となるが、鎮衛はこの政変に巻き込まれることはなかった。能吏であることを買われ、定信により天明7年(1787年)7月に勘定奉行に抜擢され、家禄も200俵の蔵米取りから500石取りとなった。更に寛政10年(1798年)には累進し南町奉行となり、文化12年(1815年)まで18年の長年にわたって在職し、死去直前にも加増され、最終的に1000石の旗本となった。在職中の11月4日に死去したが、5日後の11月9日と公表された。
墓所は麻布市兵衛町(現在の東京都港区六本木)の善学寺。また、神奈川県相模原市(旧相模湖町)にも鎮衛の父定洪の生家一族が守る鎮衛の墓石が存在する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「根岸鎮衛」の詳細全文を読む




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