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根府川駅列車転落事故(ねぶかわえきれっしゃてんらくじこ)は、1923年(大正12年)9月1日に発生した列車脱線事故である。 神奈川県足柄下郡片浦村(1954年〈昭和29年〉12月1日に小田原市に編入合併して消滅)の根府川駅付近で、東京発真鶴行普通第109列車(960形蒸気機関車977牽引、ボギー客車8両)が、熱海線(現在の東海道本線)根府川駅のホームに入線しかけたところで大正関東地震によって引き起こされた地滑りによる土石流に遭遇し、根府川駅の駅舎やホームなどの構造物もろとも海側に脱線転覆して最後部の客車2両を残して全てが海中に没してしまった〔〔『関東大震災・国有鉄道震災日誌』283頁。〕。 この事故に遭遇した列車の乗員乗客と根府川駅にいた乗客及び駅勤務職員のうち、112人が死亡(行方不明を含む)、13人が負傷した〔〔。事故であるとともに関東大震災に含まれる災害でもある。 根府川駅付近ではこの事故以外にも大規模な土石流が発生し、根府川地区や米神地区で多くの死者・行方不明者が出た〔根府川・米神地区の埋没民家数及び死者数についても、資料によってさまざまな説がある。死者については根府川地区は最少で80人内外、最大で406人とされ、米神地区の死者数は50人余から66人までとされる。〕〔。この列車転落事故による死者及び行方不明者のうち、発見された遺体はわずか5体にすぎなかった〔『事故の鉄道史』107-108頁。〕。大正関東地震が原因となって引き起こされた列車事故のうち、最悪の被害を出した事故である〔『事故の鉄道史』119-120頁。〕。 == 事故の経緯 == === 事故の発生 === 東海道本線は、明治時代末期から昭和初期にかけては国府津駅から箱根の外輪山を迂回する「函嶺越え」のルートをとって沼津へと抜ける現在の御殿場線が本線であった〔『事故の鉄道史』104頁。〕。現在根府川駅を通っている東海道本線に該当する部分は当時は「熱海線」と呼ばれていて、1922年(大正11年)12月21日には真鶴駅まで延伸開業していた〔。 9月1日午前9時5分、真鶴行の普通第109列車(960形蒸気機関車牽引、ボギー客車8両)は、定刻通りに東京駅を発車した〔『事故の鉄道史』103-105頁。〕。新橋駅、品川駅、横浜駅、保土ヶ谷駅、戸塚駅の順に停車し、10時15分に大船駅に到着した〔。大船駅では9時30分に東京駅を発車した特急第1列車(下関行)の通過待ちをし、10時27分に発車した〔。第109列車は国府津駅、小田原駅にも定時に発着した〔。 熱海線の線路は、早川駅を過ぎると相模湾沿いのルートを取り、絶壁の上を通っていた〔。第109列車は根府川駅で東京方面に向かう上りの第116列車と交換を行うことになっていたが、普段なら先にホームに入線しているはずの第116列車の姿は見当たらなかった〔。第109列車は列車の3分の1が根府川駅ホームに入線しかかったところで、激しい揺れに襲われた〔。第109列車の機関手はとっさに非常ブレーキをかけ、後部車両にいた車掌も客車のブレーキをかけたが、牽引機関車も客車も海側に脱線転覆した〔内田、19-21頁。〕。根府川駅の裏山が崩れ、第109列車は駅舎やホーム、2基の給水塔などの駅の構造物もろとも土石流に巻き込まれて約45メートルの高さから駅の下方にある小さな岬を挟むような状態で相模湾に向けて落下し始め、最後部の客車2両を海岸に残してわずか数分の間に海中へと没してしまった〔〔〔『事故の鉄道史』104-106頁。〕〔網谷、198-201頁。〕〔【特別企画】関東大震災の記録 熱海線:根府川駅フォトライブラリー 東日本大震災の記録(日本鉄道旅行地図帳) 新潮社ホームページ、2012年12月11日閲覧。〕。駅舎があった場所には、その南端に線路の車止めのみが残され、海面には駅長官舎の屋根だけが浮いている状況となっていた〔〔『事故の鉄道史』112-117頁。〕。 第109列車の機関手と前部車掌、後部車掌は海中に投げ出されたが流木にすがって海岸にたどりつき、打撲傷を負いながらも助かった〔第109列車の事故で助かった職員の人数について『事故の鉄道史』では4人、『関東大震災と鉄道』では5人としているが、ここでは『関東大震災と鉄道』の記述に拠った。〕〔〔『事故の鉄道史』107-110頁。〕。乗務見習の車掌は転落時に即死し、機関助手は行方不明となった〔乗務見習の車掌の遺体は、後に事故現場から10キロメートル以上離れた国府津の海岸で発見されている。〕〔〔。根府川駅の次の駅である真鶴駅から第120列車(13時33分発)に乗務するために第109列車に便乗していた前部車掌と後部車掌の2名も、負傷はしたものの助かっている〔〔。 根府川駅にいた職員と旅客約20名も土石流に押し流されてしまった〔。根府川駅長は非番のため妻と一緒に官舎にいたが、海まで滑り落ちたものの2人とも助かった〔〔。早川駅から来ていた予備助役や根府川駅の出札掛、受付駅手、炭水夫などがホームとともに海中に没したり、給水所などで職場を守りつつも殉職したりして、死者(行方不明者を含む)112人(うち職員の死者・行方不明者合計7名)〔、重軽傷者13名という人的被害数を記録した〔〔〔〔。なお、この事故による死者及び行方不明者のうち、遺体が発見された人はわずか5人にすぎなかった〔。 この事故で助かったのは、海岸に這い上がることのできた約30名と、たまたま海上を通りかかった発動機船によって助け上げられた13名だけだった〔『関東大震災・国有鉄道震災日誌』283頁。〕〔。海岸で職員や乗客たちは、早川駅から救援に駆けつけた駅長や駅員たちの救護を受けている〔。生存者たちは、駅舎を襲った土石流から生還した根府川駅長夫妻とここで合流した〔。第109列車の前部車掌は、乗客の1人(国府津でミカン商を営んでいた)に生存者の氏名の聞き取りを依頼した。その乗客は依頼を承諾して人々の姓名を聞きまわり、国府津駅長に知らせるために一足早く海岸を出発した〔。 助かった職員5人は、負傷しながらもこの事故について報告するため、乗客数名を伴ってその日の16時頃に根府川から小田原へと出発した〔〔〔。線路の距離にすると4.4キロメートルの道のりも路盤が崩れているために歩きにくく、2時間をかけて2.5キロメートルほど歩いて18時頃に早川の手前にある石橋地区に到着した〔〔。ここで村民からの炊き出しを受けて休憩を取り、第109列車の機関手と第120列車の後部車掌は乗客1名とともに夜間に出発し、余震の続く夜道を歩きぬいて早川までたどり着いた〔〔。残る3人の職員と乗客たちは石橋地区で一泊した後、翌朝8時に早川に到着している〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「根府川駅列車転落事故」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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