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栽 弘義(さい ひろよし、1941年5月11日 - 2007年5月8日)は高校野球指導者。沖縄県糸満市生まれ。沖縄県立糸満高等学校、中京大学卒。 ==経歴== 1941年、沖縄県糸満市に生まれる。4歳のときに沖縄戦に遭遇し、3人の姉を失い、自らも背中に重傷を負った。 小学生のときに野球を始め、高校球児時代は糸満高校野球部に所属。 当時、夏の甲子園は現在のような一県一代表制は採用されておらず、夏の沖縄大会で優勝しても、九州の学校との決定戦に勝たないと甲子園に出場できなかったため、沖縄勢にとって、甲子園出場は至難であった。しかし、栽が2年生だった1958年夏は、夏の甲子園が第40回の記念大会を迎え、特別に一県一代表制を採用したことから、沖縄大会優勝校が甲子園に出場できることとなった。優勝候補の一角だった糸満高校は準決勝に進出したが、首里高校に乱打戦の末6-8で敗れ、勝った首里が決勝にも勝って優勝し、沖縄勢初の甲子園出場を果たした。結局、栽は選手としては甲子園出場は果たせず、その後中京大学へ進学して指導者としての道を目指す。 大学を卒業した1964年、小禄高校に赴任し、高校野球監督としてのキャリアをスタートさせる。全国に通用するチームを目指して過酷な練習を課したことから度々選手との対立を引き起こしつつも着実にチームを強くし、1970年、初めて夏の沖縄大会優勝を果たしたが、宮崎県代表である都城高校との代表決定戦に敗れ、甲子園大会出場はならなかった。 1971年に豊見城高校に転任し、1975年春、2年生エース赤嶺賢勇を擁して甲子園初出場を果たす。この大会では、大会初日に優勝候補でその年の夏に優勝する習志野を破るなど旋風を巻き起こし、ベスト8に進出したが、準々決勝で原辰徳を擁する東海大相模を相手に、1-0とリードした9回裏2死ランナーなしの場面から逆転サヨナラ負けを喫する。この後、豊見城では、赤嶺や石嶺和彦らを擁し、春夏合わせて6回甲子園に出場し、3回準々決勝に進出(1976年夏、77年夏、78年夏)したものの、ベスト8の壁は破れなかった。 その後、学区制が採用されて選手を集めにくくなったことや、グラウンドその他の設備の不十分さなどから限界を感じ、1980年、全県から選手を集められ、学校が所有する広大な敷地を自由に使う許可を出してくれた沖縄水産高校に転任した。 転任後数年は、比屋根吉信率いる興南高校の後塵を拝したものの、1984年夏に初出場を果たすと、その後は1985年に入学した上原晃の活躍も加わり、1988年まで5年連続で夏の甲子園に出場するなど、黄金時代を築いた。沖縄水産でもなかなかベスト8の壁を破れなかったが、1988年夏に初めてベスト4に進出すると、1990年夏・1991年夏に2年連続で決勝戦に進出、沖縄県勢として悲願の全国制覇は惜しくもならなかったが、2回の準優勝を果たした。 しかし、1992年に不祥事のため夏の沖縄県大会出場を辞退して以降、成績が下降線をたどり、結果として、1991年夏の準優勝以後は甲子園出場は春夏合わせて4回にとどまった(勝利は1996年春の1勝のみ)。 1998年は、好投手新垣渚をはじめ有力選手がそろったことで全国制覇が期待されたが、春夏とも初戦敗退に終わり、結局、この年が栽にとって最後の甲子園出場となった。 豊見城、沖縄水産を率いて甲子園大会には春夏合わせて17回出場(+部長として1回)。 1991年夏の甲子園大会で、当時3年生エースだった大野倫への常軌を逸脱した酷使の起用(右肘の骨折を知りながらも無理矢理投球を命令)は、各所から批判を浴びた(夏の大会前に控え投手が病気で投げられなくなったため投手のできる選手が大野一人になった状況ではあったが、試合前の記者会見で「大野には死ぬつもりでやってもらいます。かわいそうだが、野球生活が終わるつもりで。やる時にはやらにゃあ・・・」との栽弘義による発言があり、それを受けて投球した大野投手は骨折したままの状態で773球を投げ抜いた結果、現在もPTSDに苦しんでいる)。また当時、「アッコにおまかせ!」の中継が沖縄で行われたが、島民が野球中継に釘付けで中継場所に殆ど人が集まらないという珍事があった。 2002年に保健体育教諭を務めていた沖縄水産を定年退職したが、部長としての2勝を含めて甲子園通算29勝だった栽は、節目のあと1勝にこだわり、その後も監督を続けた。 2007年3月13日に心臓の不調を訴えて入院し手術を受けていたが、5月8日に65歳で死去した。 長男は自由ケ丘高校(福岡)野球部監督の赤嶺琢(たくま)。2013年に同校を選手権初出場に導いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栽弘義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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