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南寧作戦(なんねいさくせん)とは、日中戦争中の1939年11月15日から12月1日までの間、「援蒋ルート」の遮断を目的として広西省の南寧を攻略した日本軍の作戦である。中国側呼称は桂南会戦〔中国側呼称の「桂南会戦」は南寧作戦から翌年の賓陽作戦までを含めた広西省南部における一連の戦いを指す。〕。 == 背景 == 日中戦争が長期持久段階に入るにつれ、中国と欧米列国を結ぶ補給連絡路(援蒋ルート)の遮断が日本の対中戦略の重要な問題として浮上してきた。援蒋ルートの中でも、特に「仏印ルート〔仏印(フランス領インドシナ)ルートは、ハイフォン港からハノイを経て雲南省昆明に至る滇越鉄道(雲南鉄道)と、ハノイから分かれて広西省南寧に出る2つの路線からなる。〕」は1938年(昭和13年)頃から輸送量が4倍に増え、その重要性を増していた。日本は外交折衝でフランスに対して再三禁絶を申し入れていたが、仏印ルートを通じて対中貿易を行うアメリカ・イギリス2国の利害も絡んでいたため交渉は進展せず、成果を収めるには至らなかった〔『支那事変陸軍作戦 (3)昭和十六年十二月まで』、44頁。〕。 1939年(昭和14年)に入ると、南寧を攻略して援蒋ルートを遮断し、更には奥地爆撃の航空基地を設定しようと言う意見が海軍側から提唱された。一方で陸軍の関心は対ソ連軍備に向けられ、この時期ノモンハン事件の対応に追われておりこの提案を無視していた。しかしノモンハン事件の責任を負って統帥部首脳が交代すると、新作戦部長に就いた富永恭次少将は南寧作戦の実行に熱意を示し〔陸軍省は反対の立場をとり、沢田茂参謀次長も消極的だったが、「これが支那事変での最後の作戦」との富永部長の懇願に押されてついに認可した。〕、ノモンハンへ投入予定だった第5師団を満州から転用して実行することになった。作戦は南寧―竜州間の補給路遮断が目的とされた。竜州は仏印との国境に近く、従来までは国際紛争を懸念して見送られてきたが、欧州大戦勃発による情勢の変化が作戦実行を後押しする形となった。英・仏が対独戦に拘束され、極東を顧みる余裕が無くなった好機に南寧を占領することで、将来的には北部フランス領インドシナ(仏印)への足掛かりにしようとする狙いもひそんでいたのである〔『支那事変陸軍作戦 (3)昭和十六年十二月まで』、45-48頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南寧作戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of South Guangxi 」があります。 スポンサード リンク
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