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桂 吉朝(かつら きっちょう、1954年11月18日 - 2005年11月8日)は、大阪府堺市出身の落語家。本名は上田 浩久(うえだ ひろひさ)。出囃子は、『外記猿』。 == 来歴 == 学生時代から『素人名人会』に出演、このころから3代目桂米之助の元に稽古に通った。大阪府立今宮工業高等学校卒業後、1974年1月に3代目桂米朝に弟子入り。桂千朝とは入門時期が近く、やや遅れて入門した桂米八とともに米朝宅で3年間住み込みの弟子となり、4畳間の部屋で3人暮らしの生活を送ることとなった〔#米朝 (2007) p.180〕。米朝曰く、一番きっちりしていたのが千朝で、毎度のように遅れて寝起きしては怒られていたのが米八、そして掃除が終わったあとに食卓にいつの間にか座っているのが吉朝であった〔。高校在学中から落研や素人落語で活動しており、この頃に3代目桂米之助から「東の旅・発端」などのネタをつけてもらっていたことから、弟子入り当初から高度な落語センスを持ち合わせており注目されていた。入門の際に吉朝の「東の旅・発端」を聞いた米朝は「これはもう教えることはない」と言って〔米朝は入門したての弟子には必ず「東の旅・発端」を教えていたことで知られており、吉朝に対する初稽古は異例のものだった。〕「商売根問」の稽古をつけ、これが初高座のネタとなった。後に米朝は自身の芸を「枝雀には50教え、吉朝には100教えた」とインタビューで答えている。 「七段目」「蛸芝居」「質屋芝居」などといった芝居噺を得意とし、「地獄八景亡者戯」以外にも「百年目」「愛宕山」「高津の冨」「千両蜜柑」などの師匠米朝ゆずりの大ネタに、現代のセンスに合った「くすぐり」を加え独自の世界を切り開き米團治系の後継者と言われていた。また「河豚鍋」「天災」「化け物使い」などの他の一門の持ちネタも自らの持ちネタとし、おもしろさだけでなく、こなせるネタの幅広さは当代一と噂されていた。 若い頃から千朝、桂雀松(現・3代目桂文之助)らや講談師の旭堂南左衛門と勉強会を開催した他、落語だけにとどまらず中島らも、松尾貴史らと共に劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」の役者としても活躍。また狂言師13世茂山千五郎らとともに、狂言と落語をミックスさせた「落言」の公演を行う一方、文楽の桐竹勘十郎、豊竹英大夫らとも親交が深く、文楽と落語をコラボレーションさせた会を開催するなど、他ジャンルの芸能との交流も深かった。また千朝ら一門の兄弟弟子と組んで中田ダイマル・ラケット、宮川左近ショウ、漫画トリオの物まねもやっていた。弟弟子の桂米左とともに日本のアニメーションの元祖とも言われる「錦影絵」を演じるなど新しい試みにも意欲的にであった。 その才能と実力から上方落語界の次世代を担うホープ、また米朝の後継者として期待されていたが、1999年に胃癌を患い、手術を受け一度復帰したものの、2004年10月になって胃癌を再発。その後治療を続けながら高座を務めていたが既に末期癌であった。2005年11月8日逝去、享年50歳。 最後となった高座は10月27日に国立文楽劇場で行われた「米朝・吉朝の会」。米朝は、吉朝たっての希望で、近年高座にかけることが少なくなっていた「狸の賽」を口演。吉朝は、当初「河豚鍋」と「弱法師」の2席を予定していたが、楽屋では医師付き添いのもと酸素を吸入しながら45分以上をかけて「弱法師」を演じるのが精一杯で「ふぐ鍋」を演じる事は出来ず、「劇場の前を偶然通りかかった」という雀松が「替り目」を代演して穴を埋めた。終演後しばらくは観客からの拍手が鳴り止まなかった。吉朝はそのわずか12日後に亡くなった。 直前まで吉朝が「米團治」を、3代目桂小米朝が「米朝」を襲名する話が進められていたが吉朝の死去により実現しなかった。後に小米朝が「5代目桂米團治」を襲名する事になる。 長男の上田康介は1983年生まれ。2007年頃からカメラマンとして活動。〔吉朝庵 桂吉朝夢ばなし、上田康介・小佐田定雄、淡交社、2011年、ISBN 978-4-473-03767-1。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桂吉朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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