|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 桂 : [けい, かつら] (n) (abbr) knight (shogi) ・ 小春 : [こはる] 【名詞】 1. early autumn 2. early fall 3. Indian summer ・ 春 : [はる] 1. (n-adv,n-t) spring
桂 小春団治(かつら こはるだんじ)は、上方落語の名跡。本来の表記は「小春團治」である。当代は3代目。 *初代 桂小春団治(1904年10月20日 - 1974年8月15日)は、本項を参照。 *2代目 桂小春団治(1932年3月5日 - 2009年3月30日)は、後の2代目露の五郎兵衛。本名: 明田川一郎。 *3代目 桂小春団治(1958年2月15日 - )は、3代目桂春団治門下。本名: 三島広幸。 == 初代 == 初代 桂小春団治(1904年10月20日 - 1974年8月15日)は、後に舞踊家として花柳芳兵衛を名乗る。本名: 林龍男。享年69。 1904年10月20日に大阪市西区九条に生まれる(出生届は1908年2月20日に出された)。 父は初代橘ノ円門下の立花家円丸(後の桂団丸)で非常に艶福家であった、母に関しても生まれてすぐに家を出て行ったために詳しいことは知らされなかった、名前すら記憶に無いという、また育ての親も度々変わった。また1903年3月生まれの母不明の兄がいたが幼く亡くなっている。1906年、父の内縁の妻松島遊郭の引き子(客引き)の田中タツが育ての親になりタツの戸籍に入り田中龍男に本名が変わる。龍男という名前は生まれ付き未熟児だったために龍のように天高く大きく育ってほしいという意味で名付けられた。 生まれて間もない頃から楽屋に乳母もらいで出入りするようになり1909年、父の門下で、子役の色物として立花家小円丸を名乗り、互楽派の松島文芸館で小噺で初高座。1911年、本田尋常小学校(現在の大阪市立本田小学校)の分校に入学。1912年、2年のときに分校から本校に転校。5月、寿々女会結成に際し父と共に移籍し、翌年に4代目笑福亭松鶴門下となり笑福亭児鶴を名乗る。8月、学校の休みの間神戸の新開地栄館や淡路洲本の弁天座、などに出演遠くは中国にも渡った、同年末に、再び立花家小円丸で復帰するが、1915年3月に父がタツと離縁し林龍男に戻る。この頃は父は武部光と京都の川端通りで同居しており新京極の大正座に父とともに出演、所属は京桂派になった、秋には神戸千代の座に出演。1916年、千代の座で大師匠の初代橘ノ円門下に移り、橘ノ次郎を名乗る。8月に大阪の新桂派に入る。神戸の落語家芝居に出演し、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」の玄番、「仮名手本忠臣蔵」の「落人」の伴内を演じ歌舞伎の魅力に目覚める(のちに芝居噺の習得の要因の一つにもなった)。同年末に浪花三友派に入り三遊亭円子門下へとなり、三遊亭子遊と改名。芝居噺を本格的に学ぼうと1917年、初代桂文我に芝居噺『本能寺』『綱七』『昆布巻芝居』などを円子の妹に舞踊を習う。8月上京し浅草の東京睦会の小屋に一月出演。1918年、本格的に舞踊の修行を積み山村流の山村若子(後の2代目山村舞扇斎)の師事し山村若太津を名乗った。1920年12月に2代目三遊亭円馬の一座(円頂派)で北陸地方を巡業。 1921年、父と共に初代桂春団治門下に移り、父は団丸を、自身は小春団治を名乗る、この頃から吉本興業に所属。1922年、名古屋の吉本の小屋七宝館に出演。帰阪後正式に春団治の内弟子生活を始める。11月横浜花月亭に出演。1923年に父円丸が中風で倒れる。父は引退。1926年、若手の落語研究会・勉強会「花月ピクニック」に抜擢される、この頃から新作落語に力を入れ『円タク』『道頓堀行進曲』のヒットにヒントに創作した『夜店行進曲』『廃娼論』『爆弾三勇士』第2回国勢調査の宣伝部長に任命された際に大阪市の依頼で創作した『国勢調査』などを発表し、芝居噺と新作という二刀流を売り物とし、一躍有望な若手落語家として注目される。 1927年に堀江の井村すみと結婚、3月、新作の代表作アメリカの禁酒法をヒントに創作した『禁酒(禁酒運動)』を発表、7月実子好良が誕生。1928年、正岡容の紹介でサンデー毎日の編集長の渡辺均を紹介され新作落語の原稿を執筆し掲載、以降定期的に掲載された。4月妻が死去、5月横浜の小屋に出演中に実子好良死去、10月南地花月で初の独演会開催。1929年、上京し東京の落語芸術協会に世話になる。1930年4月、ポリドールより『禁酒運動』を初めて録音、5月、山村流より正式に山村若太津を名乗る。1932年12月に小春団治ファンであった芸妓遠藤ルイ子と再婚。 所属していた吉本興業が、落語から漫才に路線を変更したことに反発した小春団治は、1933年10月に吉本を退社し、10月21日に4代目桂米団治らと共に「桃源座」を結成。1934年1月から4月まで化粧品会社がスポンサーで中国、東海などを巡業も「桃源座」は解散。当時の上方演芸界は吉本に支配されていたため、やがて大阪での活動が困難になる。5月単独で上京、神田立花亭に出演中に何者かに襲撃される、9月師匠春団治の病気急変を春団治の実の兄の2代目桂玉団治の代筆の手紙で知り急いで帰阪、10月に師匠春団治が没し周囲からは「春団治」の襲名を進められたが吉本からは反対され、「小春団治」の名前を返せと言われ、1935年2月、本名で活動していたが、吉本側との軋轢で大阪に居づらくなり東京に移住する。 東京では東宝名人会に出演、12月には好事家、文壇、評論家の後援で芝田村飛行会館で発表会を開く。1936年1月、4代目柳家小さんのもとに身を寄せ、桃源亭さん生を名乗る。やがて、3代目三遊亭金馬の紹介で東宝の専属となり、再び本名で東宝名人会に出演、4月名古屋のラジオ放送局で『禁酒運動』をはじめて放送される。九州巡業を経て10月に帰阪し山村若太津を返上11月、吉本と和解して大阪に戻り、林芳男を名乗る。1939年3月、4世花柳芳次郎の門下で花柳流に転向、花柳芳兵衛を名乗る。10月に正式に吉本退社。舞踊家転向以降「落語界とは一切の縁を断つ」と誓約させられた。1940年に8月、大阪市内で一門の舞踊の会に出演。1941年に関西舞踊協会理事就任。 1957年12月、妻の死去。1959年12月、広島にて稽古中に知り合った弟子と再々婚。1960年7月に長男、1969年5月の次男が誕生した。還暦の時には舞踊の会を開催。 小春団治は、師匠・春団治が最も愛した弟子だったが、上記の経緯により、師の葬儀に参列することさえ許されなかった。春団治の名跡は、実力もあり、吉本せいの覚えもめでたかった初代桂福団治が継ぐことになった。 晩年、NHKに芝居噺を記録保存し、芸の伝承に努める(寄席の踊りなど)と共に、毎日放送「素人名人会」の審査員を務めた。讀賣テレビの「YTVサロン」に出演し舞踊を披露、番組後半では3代目桂米朝と対談を行った。 大正の末から昭和10年頃までにSPレコードを得意の新作を中心に残している。また芝居噺の『昆布巻芝居』の録音も現存する。 妻は2010年8月時点では存命で当代3代目小春団治とも交流があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桂小春団治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|