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桂岩院(けいがんいん、? - 慶長9年8月17日(1604年9月10日))は、安土桃山時代の女性。上杉景勝の継室〔これは誤記であり「側室」と表記するのが正しいという説もあるが、上杉家が正式に提出した系図にも「継室」と記載されており、四辻氏は大納言の位階を有する公家の娘という身分の高い出自の女性であったということに加え、四辻氏所生の定勝は景勝唯一の子として、生まれながら嫡子としての待遇を得ていたことなどから、正室の菊姫の死後、または実子定勝の襲封後(藩主の生母として、篤く追善供養されていたことが当時の記録から窺がわれる)、継室に準ずる扱いないし事実上の継室とされていた可能性もある。〕、上杉定勝の生母。 なお本項では「四辻氏」と記すものとする。 == 生涯 == 四辻公遠〔四辻家は藤原北家閑院流西園寺家の庶流。〕の娘。本名は不詳〔富あるいは豊とする説もある。また、姉妹中における出生順は庶長女(庶出の長女)である説が有力とされる。なお、四辻氏の出自を町人の娘や家人の娘とする説(楠戸義昭『「義」の家の礎となって◆虎御前、菊姫、四辻氏』 PHP研究所『歴史街道 2009年05月号』掲載文など)もあるが、現実性や裏付が無いため信憑性は低い。ただし「お与津御寮人事件」(徳川和子入内をめぐる朝幕関係の軋轢の一つ。四辻氏の姉妹であるお与津御寮人は宮中より追放され、彼女たちの兄弟である四辻季継・高倉嗣良が流罪となった)や後述する山浦光則の処遇などの影響で、彼らの姉妹にして伯母である四辻氏の印象を上杉家から遠ざけるために、彼女の偽った出自が故意に伝えられた可能性も否定できない。〕。母は杉原氏(四辻家の家女房か)。兄弟に四辻季継、高倉嗣良(後年藪嗣良と改名)等、姉妹に後水尾天皇寵姫お与津御寮人。甥に山浦光則等、姪に文智女王、後水尾天皇寵姫四辻継子等がいる。一説では上杉家に出入りする商人〔景勝が会津に移った頃に家臣の一人が京都で商人となり、上杉家の京都における様々な工作などを行っていたとする伝承がある(「西村由緒記」)。しかし『米沢市史』は「西村由緒記」の内容に関しては全面的に信用ができるとは言い難いとしている。〕の斡旋により、京都で景勝に見初められて側室になったといわれているが、確実な史料は存在せず、側室となった経緯は不明である〔四辻氏の祖父である四辻季遠は、 菊姫の生家である甲斐武田家との関わりが深かった。詳細は四辻季遠参照。このことから四辻氏が景勝の側室になった件について菊姫が抜擢ないし関与したという説もあるが、これを証明する史料は全く無い。しかし四辻氏は庶出とはいえ公家の実娘かつ長女なので、他の公家や大名、あるいは本文のように上杉家と親密な関係にある豪商などによる斡旋も十分考えられる。なお今福匡は『兼見卿記』に登場する兼続次女(今福は兼続の養女とする)おまん御寮人の後身が四辻氏とする説を唱えている。〕。 側室として米沢に入り米沢城に居住して景勝に仕え、景勝の子供を身ごもり、景勝の伏見滞在中の慶長9年(1604年)5月に米沢城で上杉家次期当主となる玉丸(後の定勝)を出産した。 しかし、産後の経過が悪く景勝の命により神社仏閣への快癒祈願や医師の治療など万策を尽くしたが効無く、玉丸出産から3ヵ月余り後、景勝の帰還を待たずして死去した。景勝はこの薄幸の愛妾が余りにも早く亡くなったことを深く嘆き、その葬儀を家老直江兼続管轄の下、上杉家菩提寺の林泉寺で執り行った。戒名は''桂岩院殿月正清佳大姉''。墓所は始め米沢林泉寺、のちに寛永6年(1629年)4月、景勝の菩提寺でもある米沢極楽寺に移葬〔移葬の理由は「上杉家御年譜」によれば定勝の「霊夢」による希望であった。もともと四辻家の菩提寺は浄土宗の上善寺であり、林泉寺は曹洞宗であったため、実家の菩提寺と同じ宗派である浄土宗の極楽寺への移葬となったものと思われる。翌寛永7年の27回忌は両寺で執行され、その後も四辻氏の追善供養のため定勝が林泉寺を訪ねた記録があることから、極楽寺への移葬後も引き続き林泉寺でも供養が行われていたと推定される。〕。米沢極楽寺はもともと中条氏の菩提寺であったが、以後米沢藩主との関係も深くなり、上杉綱憲の側室二人〔上杉吉憲母および上杉治憲曾祖母〕の墓所とされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桂岩院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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