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桂 武男(かつら たけお、1906年 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.155.〕〔映画世界社, p.41.〕〔映画世界社, p.49.〕〔''桂武男''、''jlogos.com'', エア、2013年5月31日閲覧。〕〔''桂武男''、日本映画データベース、2013年5月31日閲覧。〕〔''桂武男''、''桂武夫''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月31日閲覧。〕〔''桂武男''、KINENOTE, 2013年5月31日閲覧。〕〔''桂武男''、allcinema, 2013年5月31日閲覧。〕〔''桂武男''、日活データベース、2013年5月31日閲覧。〕〔''桂武男''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月31日閲覧。〕。本名川浪 正夫(かわなみ まさお)〔〔〔。サイレント映画の時代の青年剣戟スターとして知られる〔〔〔。 == 人物・来歴 == 1906年(明治39年)、京都府京都市に生まれる〔〔〔〔。父もまた俳優であったが、芸名等は伝えられていない〔。 父のもとで幼少時から子役として舞台に立っていたが、満19歳になる1925年(大正14年)11月、日活大将軍撮影所に入社、同年12月31日に公開された日活の正月映画『赤城颪 国定忠次』(監督池田富保、主演尾上松之助)で、板割浅太郎役に抜擢されて出演、映画界にデビューした〔〔〔〔。ほぼ同時期に入社し、同年11月1日に公開された『荒木又右衛門』(監督池田富保、主演尾上松之助)に出演してデビューした、同い年の青年俳優・市川市丸(1906年 - 没年不詳)〔、2013年5月31日閲覧。〕〔市川市丸 、日活データベース、2013年5月31日閲覧。〕とともに、同社は、桂を大いに売り出した〔〔〔。翌1926年(大正15年)4月1日に公開された『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』(監督池田富保)では、桂は浅野内匠頭、市丸は大石主税良金の役をそれぞれ抜擢されている〔〔実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻 、日本映画データベース、2013年5月31日閲覧。〕。その後も多く主演し、櫻木梅子と共演した〔〔〔〔。しかしながら、内田岐三雄などは「市川市丸には未だ本當の藝が出來てゐないらしい。桂武男もそうである」と述べている〔内田, p.285.〕。 1928年(昭和3年)6月、同社での共演者で当時満19歳の櫻木梅子(1908年 - 没年不詳)と結婚、夫婦ともども同社を退社、そろって谷崎十郎プロダクションに移籍、そのまま、同プロダクションの配給提携先である、牧野省三のマキノ・プロダクションに移籍する〔〔〔。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、桂は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、東郷久義、市川幡谷、實川芦雁らとともに「俳優部男優」に、妻の梅子も「俳優部女優」にそれぞれ名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月31日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化したが、妻とともに解散まで在籍し、1931年(昭和6年)8月、同社の解散とともに退社した〔〔〔。同社での最後の作品は、同年4月17日に公開された主演作『三日月次郎吉』(監督吉野二郎)であった〔〔。 名古屋の第一映画社が同年12月、トキワ映画社と改称したが、桂は同社に参加し、『素浪人弥太郎』等で明石緑郎の助演を務めた〔〔〔。満27歳を迎える1933年(昭和8年)6月1日に日活が配給して公開した、京都の太秦発声映画(あるいはゼーオースタヂオ〔)製作によるトーキー『楠公父子』(監督池田富保)に出演した記録が残っているが、同作以降の出演記録は見当たらない〔〔〔。 森本良夫によれば、第二次世界大戦においては、徴兵されて大陸の戦線におり、階級は上等兵であったという〔森本, p.184.〕。戦後まもなくの時期は、捕虜としてシベリア連邦管区に抑留されたようである〔。以降の消息は不明である〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桂武男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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