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桂 藤兵衛(かつら とうべえ)は落語の名跡。元は上方落語の名跡。当代は3代目を名乗り、東京の落語家。 月亭春松編の『落語系圖』には、京都落語界の大立者であった元川傳吉の桂藤兵衛を2代目としている。当代が3代目を名乗っている根拠は、これによると思われる。しかし、墓石や他の資料、当時の新聞等には、元川傳吉の桂藤兵衛を全て3代目としている。この項では、便宜上、元川傳吉の桂藤兵衛を上方3代目とし、当代を東京3代目とする。 #初代 桂藤兵衛(1819年 - 1874年4月2日)は、初代桂文枝のあだ名。実際に自ら名乗っていたかどうかは不明。本名: 桂 文枝。享年56。 #2代目 桂藤兵衛(生没年不詳)は、初代桂梅枝が名乗っていたという記録がある。初代桂文枝門下。本名、享年とも未詳。また初代文枝の弟の初代 桂藤兵衛を称したという。 == 上方3代目 == 3代目 桂藤兵衛(1849年 - 1902年5月31日)は、上方噺家。本名: 元川 傳吉。享年54(53とも)。 大坂安治川通3丁目の米屋の子として生まれる。幼名は龜吉。1865年の17、8歳の頃、初代桂文枝の男衆に入り、文馬を名乗る、九郎右衛門町の大富席の前座に出る。数年後文車と改名、その後、初代桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)門下となり、文字助を名乗る。暫く東京へ赴き6代目桂文治の世話になったり、名古屋の林家延玉門下で修行していた時期もある。帰阪後、1882年頃から京都を根城し1885年3月、桂文左衛門門下で3代目桂藤兵衛襲名。以降、桂派京都の総取締を勤め京都・新京極の幾代亭に14年間もの長きに渡り出席、「桂藤兵衛藤原忠勝入道顋無齋(しむさい)」と自称し周囲からは「顎無(あごなし)地蔵」とあだ名され、京都の名物男となる。1897年頃に何か不都合あって文左衛門から破門され桂派から追放される。1898年夏、同じ新京極の笑福亭に移籍。 1900年正月、大阪に出、盲人音曲師の西國坊明學と組んで「藤兵衛」の「藤」と「明學」の「明」に因んで「藤明派」を立ち上げ、桂派・三友派と張り合うが、翌年秋頃、心臓の病で体調を崩して京都へ戻り、間もなく肝臓の病を併発し六角富小路下ルの自宅で病没。 「顋無齋」の名乗りの通り、顎が短く、眉太、色黒で、木魚に目鼻を付けたような顔で、丸々とよく肥えた愛嬌たっぷりの人気者であった。木遣崩し、鎌倉節、オッペケペー節、郭巨の釜堀(テケレッツのパー)などをはやらせ、『三十石』の舟唄を得意としたという。 門下には4代目桂文吾、3代目笑福亭圓笑、桂藤誠、桂藤龍らがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桂藤兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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