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桃井直常 : ミニ英和和英辞書
桃井直常[もものい ただつね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [もも]
 【名詞】 1. peach 2. prunus persica (tree)
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly
: [とわ, じょう]
  1. (adj-na,n) eternity 2. perpetuity 3. immortality

桃井直常 : ウィキペディア日本語版
桃井直常[もものい ただつね]

桃井 直常(もものい ただつね、生年不詳~天授2年/永和2年6月2日1376年6月27日)?)は、南北朝時代武将守護大名足利氏一門で家臣。父は桃井貞頼。弟に直信直弘。子に直和直知
== 生涯 ==
桃井氏下野足利氏の支族で、上野群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村)を苗字の地とする。
実名)である「直常」の読みは、『太平記』関係の書物や『本朝百将伝』(画像参照)等、後世の創作物では「なおつね」とされることもあるが、『若狭国守護職次第』〔『群書類従』第四輯所収。〕中に「桃井駿河守忠常」、『若狭国今富名領主次第』〔中に「桃井駿河守忠経」と、いずれも誤記ではあるものの、「ただつね」と読んでいたことが窺え〔阪田、1994年、p.1。〕、『国史大辞典』でも森茂暁が「直常の訓みは『若狭国守護職次第』によって「ただつね」とするのが妥当と考えられる」との見解を示している〔『国史大辞典』第13巻854頁「桃井直常」の項(執筆:森茂暁)。〕。また、関東において足利方として活動していた茂木知政茂木氏)の軍忠状に「桃井兵庫助貞直」なる人物が建武4年(1337年9月18日付で副状を記している〔『大日本史料』六之四 p.112、『茂木文書』。〕が、その花押が同5年(1338年7月4日付の書状〔『大日本史料』六之四 p.847、『明通寺文書』。〕中の直常の花押と同一であることから、貞直と直常は同一人物であり、建武4年9月18日から翌5年7月4日の間に「貞直」から「直常」に改名したことが判明している〔『大日本史料』六之四 p.112、『花押かがみ』七 P.228。〕。阪田雄一によれば、この間建武5年2月28日に、伊勢から奈良へ入った北畠顕家の軍を奈良般若坂の戦いで破ったにも拘わらず、高師直にその軍功を無視されたので、対する足利直義党への旗幟を明らかにし、それに伴って直義(ただよし)の偏諱を賜って改名したといい〔阪田、1994年、p.1。〕、前述のように当時の史料で「ただつね」と読まれていたことはこのことを裏付けるものと言える。尚、「直」の読みについては、弟たちや息子たちにも同様のことが言える。
直常の生年は不詳、足利尊氏に従い、延元元年/建武3年(1336年)頃に下野・常陸北畠顕家と合戦したことが史料上の初見である。その後、延元3年/暦応元年(1338年)の青野原の戦いにも加わり、同年に若狭守護となり、興国元年/暦応3年(1340年)頃に伊賀守護、ついで興国5年/康永3年(1344年)に越中守護に補任された。越中に庄ノ城千代ヶ様城布市城を築き、越中支配の拠点とした。
正平5年/観応元年(1350年)に観応の擾乱が起きると、直常は直義派の有力武将として北陸から入京して翌正平6年/観応2年(1351年)の打出浜の戦いで尊氏・高師直らを追い、引付頭人に補任された。しかし尊氏と直義の抗争が再発し、上野で尊氏方の宇都宮氏綱益子貞正に敗れ、尊氏に降伏した直義が翌年鎌倉で没すると、直常は行方不明となる。
正平10年/文和4年(1355年)になると、直常は直義の甥で養子の足利直冬を擁立して洛中を占拠した。以後も信濃・越中で合戦を続けたが、勢力の衰退は避けられず、鎌倉へ下向して鎌倉公方足利基氏の保護を受けた。正平22年/貞治6年(1367年)、基氏が没すると直常は出家、上洛して足利義詮に帰順した。そして斯波高経義将父子の失脚(貞治の変)に伴い、弟の直信が越中守護に補された。しかし翌正平23年/応安元年(1368年)、斯波義将の幕政復帰と共に直信は越中守護を解かれ、直常は再び越中で反幕府の軍事行動を開始する。建徳2年/応安4年(1371年)7月に直常は姉小路家綱の支援を受けて飛騨から越中礪波郡へ進出し、幕府方の能登守護吉見氏頼と五位荘(現在の富山県高岡市)で合戦を行ったが敗北、同年8月に飛騨へ撤兵、消息不明となった。
富山市布市の臨済宗興国寺は越中守護であった直常を開基と伝え、開基塔に「興國寺殿仁澤宗儀大禅定門 天授二年丙辰六月二日」と刻む。このほか、墓所として富山市牧野の五輪塔(富山市指定文化財)、富山市月岡町の龍高寺の一石五輪塔板碑、群馬県吉岡町の五輪塔と宝筐印塔、横浜市港北区高田町の塚跡が伝えられる。また、能登守護畠山氏被官の温井氏はこの直常の末裔を自称したといわれる。
また、江戸時代になってから作られた伝承によれば、直常の孫(直和の子)に当たる桃井直詮幸若舞の創始者とも伝えられる〔『国史大辞典』第13巻853-854頁「桃井幸若丸」の項(執筆:池田廣司)。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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