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桃山文化(ももやまぶんか)または安土桃山文化(あづちももやまぶんか)は、織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められていた安土桃山時代の日本の文化である〔尾藤(2000)pp.150-151〕。この時代、戦乱の世の終結と天下統一の気運、新興大名・豪商の出現、さかんな海外交渉などを背景とした、豪壮・華麗な文化が花ひらいた。 なお、「桃山文化」の呼称は、主として美術史の分野において多用される時期区分であり、その場合は17世紀の初頭も含めることが多い〔〔家永三郎は、文化史のうえでは、寛永年間(1624年-1644年)ころまでを桃山時代として扱うのが適切であるとしている。家永(1982)pp.163-164〕。本項でも、この時期区分に準じ、16世紀後半から17世紀初めにかけての文化事象について、その概略を述べる。 == 概要 == 「天下布武」を掲げて日本の国内再統一事業を推し進めた織田信長、その後継者として統一を実現した豊臣秀吉の時期を、日本史上では、2人の居城の地名にちなんで「安土桃山時代」と称し、この時代の文化を一般に「桃山文化」と呼んでいる。「桃山」の名は、秀吉がその晩年にきずいて本営を設けた伏見城(京都市伏見区)の跡地に、廃城ののち桃の木が植林され、この地が桃山と称されたことに由来している〔。 この時代、約100年におよんだ戦国時代の争乱をおさめて権力と富を集中させた統一政権のもと、そのひらかれた時代感覚が、雄大・壮麗にして豪華・絢爛、かつ溌剌として新鮮味にあふれた桃山文化を生み出した〔芳賀(1979)pp.122-123〕〔家永(1982)pp.163-172〕。この文化には、戦国の世を戦い抜いて新たに地域の支配者となった新興の大名や、戦争や貿易などを通じて大きな富をきずいた都市在住の豪商の気風や経済力が色濃く反映されている〔。 また、古代や中世の文化が神仏中心の傾向が強かったのに対し、この文化が人間中心主義的な性格を傾斜させたことも大きな特色となっている〔。それまで長きにわたって各方面の文化を支え、になってきた寺院勢力は、信長や秀吉らの政策によって弱められ、かつ、多くは没落していったため、文化の面においても仏教色が薄められ、世俗的・現実的かつ力感のある作品が数多く生み出されたのである〔〔信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしてもなお罪の意識うすかったことや、秀吉が信仰目的というよりは自らの権勢の誇示のために方広寺大仏(盧舎那仏)を建造し、しかも大仏が地震で倒壊した際には仏がいかに無力であることか嘲笑したなどのエピソードにも、この時代の世俗的・脱宗教的ないし反宗教的な時代精神がうかがわれる。芳賀(1979)p.122〕。 統一政権の出現によって、文化の地域的な広がりや庶民への浸透もいっそう進み、京都・大坂・堺・博多などの都市で活動する商工業者(町衆)が新たな文化のにない手として台頭した。この時代の文化は、中世以来の来世主義が後退し、現世享楽主義的な要素が強まったが、それには、このような町衆の台頭も背景のひとつとなっている〔〔堺の町人のなかには「債権と俗世の名望を棄てねばならぬなら、天国へなどは行きたくない」と豪語する者があり、博多の町人には「後生願ひ無用に候」と遺言する者があった。さらに「今こそ弥勒の世なりけれ」と現世を強く肯定する民衆もあった。芳賀(1979)p.122〕。 一方、ポルトガル人の来航を機にヨーロッパ文化との接触がはじまり、日本人自身のかつてないほどの活発な海外進出の影響も相まって、この時代の文化は多彩なものとなり、異国趣味を加えて世界性をもつようになった〔。新来の焼き物や楽器を通じ、朝鮮文化や琉球文化からも影響を受けた。 さらに、従来多岐にわたって文化をになってきた禅僧社会は大名らの文化顧問のような役割をにない、文化における公家社会の発言力も相応の経済的安定のもとに一定の高まりをみせるなど、一種の古典復興時代ともいうべき状況が現出した〔〔ドイツ文学者の西尾幹二は、17世紀から19世紀にかけてヨーロッパ諸国でギリシャ・ローマの古典古代文献学が一斉に開花し、そこで得られた方法論を用いて各国民国家の民族文化史が検証されていったのと同様の現象が同時期の日本においても起こったことを指摘している。西尾によれば、伊藤仁斎、荻生徂徠らによる漢学における古代言語文化の再生の営みののち契沖、賀茂真淵、本居宣長らによって国学が大成されていったのであり、これはヨーロッパにおける人文科学の思潮の展開とほぼ軌を一にしている。西尾(1999)pp.14-17〕。安土桃山時代は、武家文化・町人文化を基軸としながらも王朝文化や東山文化の系譜も継承してこれらを融合させ、国民文化の形成に大きな一歩を踏み出した時代ともいえるのであり、後続する江戸時代の文化につながる要素がきわめて大きい〔。 なお、尾藤正英(日本近世史・近世思想史)は、桃山文化の特色として、 # 城郭の石垣のように、実用的・機能的であることが、かえって新たな美を生んでいる点 # 回遊式庭園の構造にみられるように、静的な鑑賞の対象ではなく、行動することによって現出される美を追求している点 # 前代からの会所の伝統が継承されており、個人的な空間ではなく、対話や社交・儀礼など集団的な活動の場において美が営まれている点 の3点を指摘している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桃山文化」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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