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桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - )は、日本の元サッカー選手。元サッカー日本代表。広島県広島市白島(現中区)出身〔週刊サッカーマガジン、1967年6月号、p38-41〕。実兄は桑原弘之。 == 来歴 == 8人兄弟で男は弘之と楽之の二人だけ〔。1960年代の日本サッカーのメッカ・広島に生まれ、幼少期からサッカーに親しむ〔。広大付属小、広大付属中学の抽選をいずれも落ちて白島小、幟町中学に進む〔。白島小の隣りに広島市立基町高等学校があり、5年生の時に渡辺正と佐伯博司がプレーしていて、楽之はいのまにか同校でボール拾いを始める。入学した幟町中学にはサッカー部がなかったが、桑原を中心に創部〔。実兄の弘之がコーチを勤めた。 1959年、3度目の正直で広大付属高校に入学。付属中学以外の中学からの入学者は、がり勉タイプと決まっていたが、楽之がサッカーに熱中するので担任がびっくりしたという逸話が残る〔。1年からすぐレギュラーとなり2年の時、エースフォワードとして桑田隆幸、野村尊敬、小城得達、溝手顕正、船本幸路らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝、3年時はベスト8。1961年、第3回アジアユースサッカー日本代表にも小城と共に選出された〔。 進学した中央大学でも1年からレギュラー。1962年、小城や同郷の野村六彦、岡光龍三らと長沼健、宮本征勝、川淵三郎らを擁して天皇杯三連覇を狙った古河電工を決勝で破り中大に初優勝をもたらした。大学単独チームでの優勝は四半世紀振りとなる偉業だった。 1965年中大を卒業後、東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に入団。日本サッカーリーグ(JSL)初年度から主力フォワードとして、実兄・桑原弘之や共に東洋入りした小城、桑田、小沢通宏、石井義信、今西和男、松本育夫らとリーグ4連覇を含む5回の優勝と3度の天皇杯制覇に貢献した。FWとしては足の速い方ではなかったが、天性のバネと鋭い突破力を持ち〔ゴール前でアクロバティックなプレーを得意とするセンターフォワード(CF)だった。また浮き球の処理も上手かった〔報知新聞運動部『サッカーへの招待』報知新聞社、1978年、p27〕。JSL初年度で最大のライバルだった八幡製鉄との一回戦、試合終了30秒前に劇的ゴールを挙げ、引き分けに持ち込んだ殊勲者でもある〔。JSL通算53得点は歴代17位。 1968年のメキシコオリンピック銅メダルのメンバーにも名を連ね、1次リーグ2戦目の対ブラジル戦では、ブラジルのセンターバックが巨漢のため、釜本邦茂をHBに下げヘディングの強い桑原がFWとして先発出場、桑原が競り合ってこぼれ球を釜本が狙うという作戦を取った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桑原楽之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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