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桑山 一晴(くわやま かずはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名で、大和新庄藩の初代藩主。大和新庄藩桑山家2代。桑山一重の長男で、桑山重晴の嫡孫。幼名の小藤太は通称としても用いられた。 == 生涯 == 文禄・慶長の役では叔父桑山貞晴 (小傳次)と共に水軍の将として渡海し功を挙げたが、戦闘で傷を負った。 慶長元年(1596年)に祖父重晴が隠居して出家し、宗栄を名乗ったとき、父一重は既に天正10年(1582年)に死去していたため、嫡孫の一晴が紀伊和歌山の所領を受け継いだ。 慶長2年(1597年)の紀州一揆の際には、浅野幸長が洲埼に移設する前の旧田邊城(山城)の包囲を解いて、鎮圧に貢献した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは領国にいて、初めは西軍に属したが一族で東西に分かれる状態で、後に一晴は祖父重晴と共に東軍に与し、命を受けて西軍方の堀内氏善を攻めて新宮城を攻略したことから、所領を安堵を許された。 慶長6年(1601年)、大和葛下郡布施に所領を移され、新庄藩の初代藩主となった。この後に祖父重晴に4,000石を分与しており、一晴の治める所領は1万6,000石となっている。 慶長9年(1604年)2月26日(または2月28日)に伏見で死去した。享年30とも33とも言う。跡を弟の一直が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桑山一晴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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