翻訳と辞書 |
桓沖[かん ちゅう] 桓 沖(かん ちゅう、328年 - 384年4月)は、中国東晋の武将。字は幼子。 == 生涯 == 父は桓彝。兄に東晋の実権を握った大司馬桓温と桓雲、桓豁、桓祕がいる。甥に桓熙、桓濟、桓歆、桓禕、桓偉、桓玄。子に桓嗣、桓謙、桓脩、桓崇、桓弘、桓羨。 末弟であったが、兄の桓温から性格と才気、器量を評価されて可愛がられていた。373年に桓温が禅譲の直前で病死すると、兄の指名で桓氏を継いだ。これは兄の息子桓玄が幼児だったため、中継ぎとして入れられたためである〔駒田『新十八史略4』、P135〕。しかし兄がいるのに末弟が継いだため、桓温没後に2人の兄が騒動を起こして桓沖はこの鎮圧を行なった。また兄が禅譲まで行なおうとしたことから謝安からは警戒され、桓沖は平北将軍・徐州兗州2州の刺史職を取り上げられる代わりに揚州刺史に任命されているが、これは桓氏から兵権を奪い取ったようなものだった。 だが桓沖は兄と違って忠実で、荊州の軍閥として謝安の政権に参画した。383年の淝水の戦いでは前秦の大軍が迫る中で都の守護のために3000人の精鋭を派遣している〔駒田『新十八史略4』、P125〕。しかし謝安に断られ、さらに謝安が戦略について何も語ろうとしなかったため、「大敵が今にも来るというのに、戦の経験の無い若者を駆り出して自分は遊んでいる。これでは我々は降参するしかない」と嘆息したという〔駒田『新十八史略4』、P126〕。淝水の戦いでは前秦軍の機先を制するために襄陽を攻めたが、前秦軍に押し留められた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P95〕。 384年4月に死去。享年57。甥の桓玄が跡を継いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桓沖」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|