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櫻間 伴馬(さくらま ばんま、1836年1月6日(天保6年11月18日) - 1917年(大正6年)6月24日)は、シテ方金春流能楽師。1911年(明治44年)以降は櫻間 左陣を名乗る。 維新後低迷を続ける能楽界にあって、熊本出身の一地方役者ながら、その卓抜した技で観客の喝采を博した。能楽復興の立役者として、初世梅若実、16世宝生九郎とともに「明治の三名人」の一角に数えられる。子に櫻間弓川がいる。 == 生涯 == === 生い立ち === 1835年(天保6年)、熊本の中職人町(現在の熊本市)にあった新座舞台で、櫻間家の長男として生を受ける〔櫻間金太郎(1987)、178頁〕。父は熊本藩に仕える金春流能役者・櫻間右陣(三角紋理)、母は美加子。弟に金記、林太郎がいる。 櫻間家は代々藤崎八旛宮に奉仕すると同時に、喜多流の友枝家とともに、熊本藩のお抱えとして能役者を勤める家柄であった(後述)。そして友枝家の座を「本座」と呼ぶのに対し、櫻間家の方は「新座」と称された。役者同士はそうでもなかったが、本座と新座の贔屓筋はお互い仲が悪く、対抗意識が強かった〔櫻間弓川(1948)、38頁〕。 父・右陣は、櫻間家の代々の名が「左陣」であったのを敢えて「右陣」と名乗るなど、かなりの変わり者であった〔櫻間金太郎(1987)、8頁〕。羽二重の着物に紫縮緬の羽織という、当時の熊本としてはかなり派手な服装を常用し、その格好のまま漁に出て投網も打てば、雨が降り出しても「先のほうも降っている」と傘もささずのんびり歩いていた、という話が伝わっている〔櫻間弓川(1948)、46-7頁〕。それでいて優れた舞い手でもあり、右の頬に大きな痣が目立っていたが、ひとたび舞えば誰もそれが気にならなかったという〔櫻間金太郎(1987)、8-9頁〕。 1841年(天保12年)、藤崎八旛宮祭礼で初シテとして「経政」を勤める〔櫻間金太郎(1987)、178頁〕。 青年時代の伴馬は美男役者と評判で、楽屋に落とした彼の元結いの切れ端を、奥女中たちが取り合っては、それを守り袋に入れて大切にしたと言われる〔池内(1992)、310頁〕。恋文を届けられることもしばしばで、「花のようなる伴馬様」と記された手紙を、ずっと後になって、弟子の高瀬寿美之が伴馬の部屋で見つけたという話がある〔櫻間道雄(1972)、222頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「櫻間伴馬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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