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桶狭間(おけはざま)は、愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域の汎称地名・歴史的地名である。 本来的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し〔『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:320-321ページ〕、後述するように室町時代初期にその発祥をみて以来現在に至るまで、尾張国知多郡桶廻間村とその村域を明治時代以降にほぼ踏襲した行政区域を指す地名でもある。行政区域としては2013年(平成25年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち9つに桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北2丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北3丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」)。 他方、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に知多郡北部から愛知郡南部にかけて展開された桶狭間の戦いの故地の名としてもよく知られている。名古屋市の桶狭間古戦場調査委員会が1966年(昭和41年)にまとめた『桶狭間古戦場調査報告』で桶狭間を「漠とした広がりを持った地名語」と表現しているように〔『桶狭間古戦場調査報告』:12ページ〕、その戦跡は桶廻間村の村域を大きく越えて広く残され、桶狭間の名を冠した地名・史跡・神社・公共施設・店舗・イベント、また桶狭間の戦いに由来するという同種のものが名古屋市と豊明市の両方に散見される。 ==「桶狭間」の名称の由来== 「桶狭間」の名称は、桶廻間村・大字桶狭間という村名・字名として知られるとともに、「桶狭間の戦い」の故地の地名としても知られる。桶廻間村・大字桶狭間の地名の由来にかかわる伝承は、『有松町史』や名古屋市立有松小学校の教材『有松』、名古屋市立桶狭間小学校の教材『桶狭間』などで詳しく紹介されている。 それらによると、地名の由来については諸説あって定かでないが、一説には、古く洞と呼ばれた場所に由来するという〔『有松町史』:10ページ〕。伝承では、南北朝時代(室町時代初期)にあたる1340年代頃、皇室の分裂に伴う政争において南朝に与し落武者となった少数の武者集団の入郷があり〔、北朝の落武者狩りから逃れるために〔PDFファイル、1.3メガバイト) ">緑区ルネッサンスフォーラム会報第5号(PDFファイル、1.3メガバイト) (緑区情報バンク、2012年(平成24年)9月17日閲覧)〕林の奥深くの「洞」(窪地)に家屋を建てて隠れ住んだといわれ〔、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字セト山付近(現名古屋市緑区桶狭間)がその地であるという〔。 「洞」の字は、当時「クキ」と読まれていたとされる。やがて「クケ」に訛り、さらに「ホケ」に転じたという〔。ここに谷間の地形を指す「ハサマ」と結合し「クケハサマ」・「ホケハサマ」と連称されるようになり、戦国時代の頃までには「洞迫間」・「公卿迫間」・「法華迫間」といった漢字が当てられている〔〔『新説桶狭間合戦』:28ページ〕。小起伏の多い桶廻間村・大字桶狭間にあって「ハサマ」と目される地形は数多く、嵐廻間(あらしばさま)、六ヶ廻間(ろくがばさま)、神明廻間(しんめいはさま)、牛毛廻間(うしけばさま)、梨木廻間(なしのきばさま)、井龍廻間(ゐりうばさま)といった古くからの地名が各所に残されている〔『愛知県地名集覧 (原題)明治十五年愛知県郡町村字名調』:32ページ〕。桶狭間の発祥地と考えられる字セト山は、村の中心地であった森前から見て裏手、すなわち背戸(せと)にあたることからその名が付いたとされ〔『新説桶狭間合戦』:26ページ〕、隠れ場所の比喩とも捉えられるような、標高40メートル台の丘陵地である〔『有松町史』:8ページ〕。この山の中腹に密かに居を構えていたとみられる落人たちの視線を想定すれば、西方にはすぐ眼下に鞍流瀬川が南進する沖積平野が南北に細長く広がり、その先に森前・神明の丘陵地がそびえることから〔『有松』:87ページ〕、この沖積平野付近の落ちくぼんだ様子は「ハサマ」と捉えうるものである。また、桶狭間東部にあたる東ノ池()を中心に丸く平坦に広がった一帯を「桶」と見なす捉えかたもある〔『証義・桶狭間の戦い』:352ページ〕。しかし『有松町史』は「ハサマ」の具体的な所在地については明確にしておらず、丘陵と丘陵の間に広がる洞のような、桶のような谷底平野がその名にふさわしいと記すのみである〔『有松町史』:11ページ〕。すなわち、丘陵と谷底平野が複雑に交錯する広範囲の景観をもって「ハサマ」と名付いたと考えることが妥当のようである〔。 安土桃山時代の成立といわれる軍記物『足利季世記』には尾州「ヲケハサマ」とあり〔『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』:210ページ〕、桶廻間村・大字桶狭間に残る江戸時代最初期(1608年(慶長13年))の検地帳控が『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』とあるのは〔『有松町史』:12ページ〕、すなわち16世紀後半頃にはすでに「ホケ」・「クケ」がさらに「オケ」に転じていたことを示すものである。漢字表記では、江戸時代になると「桶廻間」・「桶迫間」・「桶峡」といった表記が主となるが、桶廻間村・大字桶狭間に残る古文書では「桶廻間」が最も多く、数点「桶迫間」がみられ〔、尾張藩家老であった山澄英龍(やまずみひでたつ)の著書に『桶峡合戦記』があり〔『緑区の史蹟』:203ページ〕、寛政年間(1789年 - 1801年)に成立した『寛政重修諸家譜』には「洞廻間」と記されたりしている〔。これら様々に表記されてきた漢字が「桶狭間」に統一されたのは、郡区町村編制法の制定に伴う1878年(明治11年)のことである〔。 上記に示した「洞」の由来とまったく異なり、「桶がくるくる廻る間(ま、ひととき)」から桶廻間と呼ばれるようになったとする説もある。郷土史家の梶野孫作によれば、その昔、南朝の落人による村の開墾が次第に軌道に乗った頃、大池()北部の小さな土地に御鍬社(おくわしゃ)を祀って毎年の農閑期に田楽を奉納するようになり、すなわちここにまず「田楽坪」の名が生まれたとする〔『奈留美 第四号』:25ページ〕。それが後年いつのまにか桶狭間とされたのは、名古屋と刈谷を結ぶ三河街道(長坂道)に沿っていたこの地がちょうど道中の中間地点でもあり、一息付けるような木陰の脇には泉がこんこんと沸いていて、水汲み用の桶が水の勢いでくるくる廻る様子をおもしろく眺めながら一服するひとときを過ごす旅人によって、そう呼ばれるようになったからだという〔。名古屋市緑区桶狭間北3丁目(旧有松町大字桶狭間字ヒロツボ)にある「桶狭間古戦場公園」()は、かつて神廟が祀られ田楽が奉納された小さな土地の跡地であるとされ〔、「義元公首洗いの泉」と呼ばれる小川なども整備されているが、1986年(昭和61年)の区画整理前には「泉ボチ」と呼ばれて〔清水が豊富にわき出る場所であったといわれる〔。また、大池の東に位置する和光山長福寺の境内にある「弁天池」と呼ばれる放生池も、桶がくるくる廻る桶廻間伝承を持つ泉のひとつである〔。 現在、「桶狭間」の一般的な読みは「おけはざま」であるが、地元では「おけばさま」と連濁および清濁交代を起こして読まれることがあり、さらに「おけば」と略することも一般的である〔『名古屋区史シリーズ⑥ 緑区の歴史』:256ページ〕〔『名古屋市文化財調査報告33 有松まつり 布袋車・唐子車・神功皇后車』:76ページ〕。これは大字桶狭間で自称されるのみならず、近隣の大字有松や豊明市栄町からも同様に呼ばれている〔『名古屋市文化財調査報告33 有松まつり 布袋車・唐子車・神功皇后車』:7ページ〕〔『大脇の歴史』:92ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桶狭間」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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