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梁 埈赫(ヤン・ジュニョク、1969年7月10日 - )は大韓民国の大邱市出身の三星ライオンズに所属していた元プロ野球選手。主なポジションは入団初期はファースト、その後はライト、レフトとポジションを移し、40歳を超えてからは指名打者での出番が多い。左投げ左打ち。嶺南大學校卒。 == 来歴・人物 == 嶺南大学の4年生だった1991年シーズンオフ、地域優先ドラフトで出身高校の所在地を保護地域で持つ三星ライオンズの指名を受けられず、ウェーバー方式で行われる2次ドラフトに流され、前年最下位だったサンバンウル・レイダースの指名を受けた。この時代の三星は打線に比べて投手陣が手薄だったため、地域優先ドラフトで左腕投手である金泰漢(キム・テハン)を指名した。 サンバンウルから巨額の契約金のオファーを受けたが、故郷である大邱でプレイすることを希望して、サンバンウルへの入団を拒否。大学卒業後、兵役を遂行するため入隊して韓国国軍体育部隊である尚武(サンム)に配属された。1年後、再びドラフトに出て地域優先ドラフトで三星ライオンズの指名を受け、1993年三星ライオンズに入団。この一連の入団の過程で、金泰漢と梁埈赫のどちらも逃したくなかった三星との密約説が囁かれた。 1年目からレギュラー選手として出場し、首位打者と新人王を獲得するなど、主力の一人として活躍。1999年、選手会の問題で球団と対立し、林昌勇(現シカゴ・カブス)との交換で黄斗聖などとともに3対1でヘテ・タイガースにトレードされた。翌2000年にはヘテの財政難でLGツインズにトレードされた。2001年オフ、フリーエージェントで古巣三星に復帰。 大柄な体格で蟹股に構え、スイング後のフォロースルーの際に両手をあげるような独特の打法は「万歳打法」と呼ばれて野球ファンたちに大変な人気がある。「ウィプンダンダン(威風堂々)」で始まる応援テーマは、所属先の三星ライオンズの応援で最も盛り上がるものの一つ。 個性的な打法だけでなく、バットコントロールも巧みで通算本塁打数の割に三振が少なく、選球眼もよいため出塁率が高い。卓越した打撃技術を生かし、これまで韓国では4度の首位打者に輝いている。また2014年シーズン終了現在、韓国プロ野球史上でただ一人2回サイクルヒットを達成している。 2007年6月には韓国史上初の個人通算2000本安打を達成するなど、走力が必要な盗塁と三塁打を除く数々の個人通算記録保持者ともなっている。だが、2008年は負傷以外でプロ入り後初めて2軍降格を経験し、連続2桁本塁打も15年で途切れる。 2009年4月14日のハンファ戦で、通算340号本塁打を記録し、張鍾熏(チャン・ジョンフン)の個人通算本塁打記録に並んだ。しかし、その直後故障で2軍降格。故障から復帰した5月9日のLGツインズ戦で341号本塁打を記録して、張鍾熏を抜いて韓国プロ野球の個人通算最多本塁打記録者になった。さらに7月14日の斗山ベアーズ戦で、史上初の通算350号本塁打も達成した。しかしながら、シーズンで最多本塁打のタイトルを取ったことはない。40歳となり、2009年は故障もありプロ17年間で初めて出場試合数が100を切り、規定打席にも達せず100安打未満に終わるなど、年齢による衰えが隠せなくなっているように見える。1966年生まれの宋津宇などの引退で、41歳となった2010年には韓国プロ野球界最年長選手となった。 2010年6月3日の起亜戦で、通算試合出場数を2112に伸ばし、金敏宰を抜いて通算出場試合の最多記録を更新した。7月24日のオールスター戦にも41歳で出場し、最年長出場記録を更新しただけでなく3点本塁打まで打ちファンたちを大いに興奮させた。 7月26日、同年限りでの現役引退を発表し、9月19日大邱市民運動場野球場で盛大な引退試合が行われ、背番号10は三星の永久欠番となった。 2011年からは韓国のスポーツ専門チャンネル、SBS ESPNで野球解説者として活動し、バラエティ番組などにも出演している。また野球普及のための財団、少年野球チームなどを設立するなど、慈善事業を幅広く展開している。 私生活的な面では芸能人並みの口達者で、バラエティ番組に出演することもしばしば。また釣りが趣味で、プライベートな時間が取れたら必ず釣りに行くという。その腕前も相当なものらしく、ケーブル局の釣り番組に出演した経歴もあるほど。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梁ジュン赫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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