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梁 寒操(りょう かんそう)は中華民国(台湾)の政治家・教育者・実業家。号は君猷、均黙。中国国民党(国民政府)の政治家で、胡漢民・孫科ら広東派の一員と目される。祖籍は広東省肇慶府高要県。 == 事跡 == === 広東派の一員として === 13歳で肇慶中学に入学、4年後に卒業した。16歳のときに、新会県江門頼神会に附設されていた明徳小学校で教師となる。1918年(民国7年)、公立広東高等師範学校に入学し、さらに興華自立浸信会(バプテスト教会)で洗礼を受けた。1923年、同校を卒業し、中国国民党に加入する。 1924年(民国13年)、梁寒操は広州市第4区党部書記兼青年部幹事となる。6月、培正中学教師となった。1925年(民国14年)3月、広州での孫文(孫中山)追悼会を主催した。6月、汪兆銘(汪精衛)に招聘され、国民政府秘書処で職に就く。さらに中央宣伝員養成所、私立国民大学、公立広州法政学校、広東高等警官学校で三民主義の講師を務めた。1926年(民国15年)冬に北伐軍に随従して漢口に至り、翌1927年(民国16年)4月に孫科の招聘で武漢国民政府交通部秘書になっている。同年夏、武漢国民政府の中国共産党との決裂に伴い、29歳の若さで中央党部書記長に任命された。 南京・武漢の国民政府合流後、梁寒操は財政部で秘書・参事を歴任し、さらに上海で孫文学会の構成員となり雑誌『再造』を刊行するなどした。1928年(民国17年)、鉄道部に転じて秘書・参事を歴任し、1931年(民国20年)2月に同部総務司司長に昇進している。まもなく胡漢民が蒋介石に軟禁され、汪兆銘・孫科らが反蒋の広州国民政府を鼎立すると、梁もこれに参加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梁寒操」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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