翻訳と辞書
Words near each other
・ 梅丹本舗
・ 梅丹本舗・GDR
・ 梅乃ハッパ
・ 梅乃里
・ 梅乃里昭二
・ 梅久保トンネル
・ 梅久保トンネル (国道411号)
・ 梅之郷
・ 梅之郷インターチェンジ
・ 梅井大輝
梅亭金鵞
・ 梅代村
・ 梅佳代
・ 梅光女学院中学校
・ 梅光女学院中学校・高等学校
・ 梅光女学院大学
・ 梅光女学院大学短期大学部
・ 梅光女学院短期大学
・ 梅光女学院高等学校
・ 梅光学院


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

梅亭金鵞 : ミニ英和和英辞書
梅亭金鵞[ばいてい きんが]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うめ]
 【名詞】 1. (1) plum 2. Japanese apricot 3. prunus mume 4. (2) lowest (of a three-tier ranking system) 
: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 

梅亭金鵞 : ウィキペディア日本語版
梅亭金鵞[ばいてい きんが]

梅亭 金鵞(ばいてい きんが、文政4年3月30日1821年5月2日) - 明治26年(1893年6月30日)は、幕末から明治中期の作家・編集者。 滑稽本・人情本・啓蒙書・諷刺小説などを書いた。本名は瓜生政和(まさやす)、通称は熊三郎。筆名に橋爪錦造もあった。
== 生涯 ==
吉田勝之丞の次男として、江戸両国薬研堀(現・中央区東日本橋二丁目)に生まれた。柳剛流の父に剣を習い、1836年(天保7年)から伊勢に3年武者修行して腕を磨き、江戸の若手剣客の雄と言われたが、1845年(弘化2年)、本郷附木店(現・本郷五丁目)の瓜生家の養子に入った。
1848年(嘉永元年)(27歳)頃、人情本松亭金水の門弟となり金鵞の号を貰い、連日通って金水の稿の版下を書き挿絵の下絵を描き、自らも習作を試みるなどして過ごした。師に倣って人情本を書いてから、性に合う滑稽本の『七偏人』(1857年 - 1863年)で名を上げた。剣の腕は冴えても、道化た愛嬌者だった〔鶯亭金升:『明治のおもかげ』、岩波文庫(2000)p.53〕。
明治維新となり、三条の教憲発布の後は、『瓜生政和』の実名で『西洋新書』『西洋見聞図解』以下の啓蒙書を出す裏で、1875年、『橋爪錦造』の筆名を使った雑誌『寄笑新聞』11冊で、御一新後の世相を諷刺し皮肉った。それが縁で、1877年(明治10年)3月、野村文雄の団団社に招かれ、諷刺漫画雑誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』の主筆となり、『三人同行』『春色花暦』『驥尾団子』などを連載したが、後の二つは当局の邪魔で中絶した。更に同社が1878年11月創刊した姉妹誌『驥尾団子』に『妄想未来記』などを掲載して、文明開化の世相をからかった。
その後も『驥尾団子』誌他に人情本風の作品を載せたが、次第に世に遅れ、1881年団団社の客員に退き、1884年鶴声社(書店)の編集・企画に転じた。
60歳を越えた老金鵞は、条野採菊らのやまと新聞に時に稿を寄せたものの、既に過去の人だった。
1890年(明治23年)、脳溢血に倒れて療養し、1893年に没した。72歳。『清受院釈果得浄生信士』。墓は元浅草最尊寺にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「梅亭金鵞」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.